「ソースは自分が唯一持っているけど公開はできない」は情報として価値があるのか

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今件は直接的には某鉱業系の資料・検証に絡んで色々とドタバタがあり、その中で反論を繰り返す人たちに対して資料の持ち主が憤りを覚え、資料そのものを破棄してしまったらしい......という話がトリガー。この資料があるから自分は色々と揉め事に巻き込まれる。ならば廃棄宣言をした上で捨ててしまえばとの流れ。色々と事情はあるのだろうし、伝わっていることすべてが事実であるか否かの検証をしていないので、話半分に聞く必要はあるのだろうけど。

他方で情報とソースに関するお話には、色々と考えさせられるものがある。指摘されているミリタリ界隈ってのは、ちょっと思い当たる節が見つからないのでさておくとして。

創作や物語的なものならいざ知らず、過去の状況を事実として伝える場合には、それなりの裏付けが無いと困った話になる。それがウソ偽りデタラメ創作なのか、本当にそうだったのかは、第三者が検証できないからだ。「●×は事実、ソースは俺」とか「自分の経験の限りでは」の場合、その言自身は正しかったとしても、他の人も、周囲も、当時の社会的環境全体としてもそうだったか否かってことの検証は不可能となる。現場第一主義で、自分の足の運んだ現場の事のみを、自分自身の感情が飲み込まれた形でレポートするタイプのジャーナリストの危うさと同じかな。

さらにいえば、昨年の朝日新聞の吉田調書が良い例でもある。「ソースは自分の手元にあるけど、第三者には開示できない」って事でやりたい放題やってたけれど、そのソースが別所から出てきた時に検証され、出鱈目をやらかしてたってのがばれてしまった。そういう事例って本当にあるんだなあ、ということを大手の新聞社が立証してしまったわけだ。

「「公表出来ない極秘資料」は「脳内ソース」と区別つかない」。言い得て妙ではある。第三者が検証できる状況ではじめて、その資料と、資料を基にした研究や情報には価値が出てくる。(非常に高額な)対価を支払わないと取得できない資料に、当方が躊躇するのは、その点でもある。無論費用対効果とか、大本の金銭的理由もあるけれど。他人が検証できない情報は、単なる独り言、妄想と変わらないと判断されてしまいかねないからね。

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このページは、不破雷蔵が2016年6月14日 07:26に書いた記事です。

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