昔、「電子掲示板」(分かりやすく言えば、小さな「野良2ch」のようなものw)の管理をやってた頃、とにかくもっとも慎重にやってたのが削除権の行使だった。
— 加藤AZUKI【「忌」怖い話】 (@azukiglg) 2016年6月19日
管理人だけが削除権を持っている特権者だから、削除権はみだりに濫用してはならない。抑制的でなければならない。
削除権の行使に際したルールは厳正でなければなない。人治的属人的であればルールを整備する手間が省けて、「管理人の機嫌を損ねなければ削除されない」という特権に根ざした王様気分で管理人はいられるけど、それは管理人への阿りを生んで掲示板は不健全になる。
— 加藤AZUKI【「忌」怖い話】 (@azukiglg) 2016年6月19日
そうそう。あと「パソコン通信」とかね。 QT @hanasakimasanao: @azukiglg ツリー式掲示板か(´・ω・`)
— 加藤AZUKI【「忌」怖い話】 (@azukiglg) 2016年6月19日
なので、管理人は「可能な限り削除権を行使しないほうがいい。いざというときは躊躇なく行使するが、それはギリギリまで行われないし、滅多に行われない」そして「削除に関すること以外については、管理人の意向は無視されたっていいし軽視されてもいいし弄られてもいいw」
— 加藤AZUKI【「忌」怖い話】 (@azukiglg) 2016年6月19日
いわゆる「忘れられる権利」にも絡む問題。この「忘れられる権利」が定義があいまいで、人によっては「自分にとって都合の悪いことは他人が管理しているものでも無条件ですべてを消せる」と認識されている。実のところはあくまでも検索エンジン上で検索されないようにするだけの話なんだけどね。
掲示板なりブログのコメント欄では、それを運用する人が神的な存在となる。あらゆる権限を(機能の限り)有しているからだ。書き込みの削除、編集はもちろん、並べ替え、書き込みそのものを止めてしまう、さらには世界そのものの封印(コメントの禁止、さらには掲示板やブログの閉鎖)までもが自分の意思で可能となる。
他方、その権限を乱用・濫用すると、その世界は荒れてしまう。管理人の横暴さに耐えかねてその場を離れる人とか、逆切れしてスパム行為に走る人とか。いわゆる乱世状態になってしまうのは必至。強権政治の下では人は自由なやり取りができるはずはない。この辺りはネットコミュニティの管理運営全般にいえることで、その方法論をまとめた本も何冊か出ているはず。
王様は絶大な権力を持つけれど、だからこそその力はぎりぎりまで使用を留めねばならないし、使うにしても最小限であることが望ましい。伝家の宝刀はその存在そのものが一番の効力となる。まぁ、コミュニティの方向性にとっては運用者側の思惑があるので、一概にこれが正しい、これは間違っているとは言い切れないけれど。
2chは「ユーザー固有のアカウント」という概念が、個人識別のためのキャップ、トリップくらいだったけど、(コテ/ハンドルは幾らでも偽装できたし、IDは頻繁に変わったし)その後のSNSサービスは「固有のアカウント」と「本人発言を本人が削除できる」ようになった。
— 加藤AZUKI【「忌」怖い話】 (@azukiglg) 2016年6月19日
2chは本人発言も本人には削除できなかったので、例えば個人特定できる情報を自分で書き込んでしまうと「今のなし!」が直後にはできなかった。まあ、殆どの場合は救済されなかったので、迂闊な人間はどんどん自滅した(^^;)
— 加藤AZUKI【「忌」怖い話】 (@azukiglg) 2016年6月19日
ただ、個人情報以外の「個人の意志の表明、主張」は、これも撤回(自発的削除)が自由にできなかった。アカ消しして自分の発言ログ全てを抹消して遁走するってこともできなかったから、コテが「いなくなる」ことはあってもそれまでの発言は全部残ってた。
— 加藤AZUKI【「忌」怖い話】 (@azukiglg) 2016年6月19日
今では管理側の運用形態の内情が色々と暴露されていることもあわせどうなっているのか怪しいぶぶんもあるけれど、少なくとも以前の2ちゃんねるでは書き込みされた内容は石に刻まれた文章のようなもので、特別事例で無い限り削除はできなかった。書き込みした本人でも。だから、証拠としては十分なものとなりえた。「半年ROMれ」とは空気を読んで慎重さを身に着けるようになるまでは、読むだけの参加にした方が良いというネットスラングではあるけれど、有益な言い回しには違いなかった。慣らし運転みたいなものだ。
今のSNSはTwitterも含めて固有アカの保有者当人が自分の発言を自由に削除撤回できるし、第三者からの申し入れも含めての運営側からの凍結(アカ削除の強制)や本人によるアカ消しによって、過去発言の全て(の一次ソース)は抹消されるようになった。
— 加藤AZUKI【「忌」怖い話】 (@azukiglg) 2016年6月19日
これは善し悪しあるのは当然としても、「言い逃げ」を可能としてるし、また「ある発言者の発言を、最初から存在しなかったこと」にさせている。
— 加藤AZUKI【「忌」怖い話】 (@azukiglg) 2016年6月19日
メリットとしては「不用意な落ち度を最初から存在しなかったことにできる」。デメリットは「生きた証しが消える」。
メリット 【不用意な発言をなかったことにできる】
— 加藤AZUKI【「忌」怖い話】 (@azukiglg) 2016年6月19日
デメリット【生きた証しを抹消される】
どっちを是とするかも人によって違うから、これも一概に悪いともいいとも言えないけど、「数年がかりの生きた証しを最初からなかったことにされる」っていうのは、ちょっとゾッとするかな。
しかし今のソーシャルメディアでは全般的に、書き込みをした人への権限が強化されているため、本人による削除は容易であるし、Facebookなどなら書き込んだ後の編集もできる。さらに運用側によるものも合わせ、容易に過去の発言を記録から抹消することができるようになった。キャッシュで保全する手もあるけれど、常にすべてを記録するのは事実上無理であるし、この部分は将来使うだろうから消されても良いように記録しておこうってのは、非常に大きな労苦を必要とする。
ウェブ上の行動記録を消す、消されてしまうことで、後に検証が難しくなる、存在を確認できなくなる、さらには記録そのもののリカバリーが出来なくなるってのは、まるで旧ソ連時代においてよくやられていた、集合写真のうち都合の悪い人物を消すコラージュのようで、確かに「ゾッとする」。
さらにいえばこれと類する形で、先行記事の【「流行ってる」語れば 流行ると思ってる】にもあるように、実際には流行っていないのに「流行っている」と声高に語ることで、それが後世で「流行っていた」と歴史の刷り込みをされてしまう可能性もあるわけで、こちらもゾッとする。この点では【流行語大賞の違和感と懸念と】で言及した、中身がおかしくなってしまった「流行語大賞」にもいえること。
情報化社会ってのは、情報が生活の軸となる。そして情報は容易に操作されやすい。それは生活そのものが操作されやすい、さらには抹消されやすいことをも意味するのだよね。まさにゾッとする。
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