大手新聞の「社説」が多分にスットコな話ばかりなのは、恐らくこのノリでそのまま記事が書かれているのだろうなあ、と推測すると、大いに納得できてしまうのであります。つまりは中核にいるであろう方々の本質、文筆家としての質のほどが現れるわけで。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年6月25日
先日大手新聞社Mの客員編集委員で帝京大学教授という、相応に高い新聞社内のポジションと肩書を持つ方が、円高最高、円高ごっつり進めば俺様大人買いができるよ、円高でひーひー言ってる企業は努力が足りないんだ的な、いかにも資産を貯め込んだ方の上から目線的な発言を、その肩書を公知したままで語り、多方向からツッコミを受けた件に絡んで。
語られていた中身は(ブロックされていることもありここでは提示しないけれど)、子供の戯言に等しいもので、とてもではないけどその肩書を持つ人の言及とは思えないもの。ソーシャルメディアは利用が容易ですぐに不特定多数に自分の語りを公知できるため、居酒屋での知人との戯言の感覚で本音が出てしまうってのはよく言われることだけど、まさにそのレベルで本音が出てしまった感はある。
報道界隈、特に新聞関係者でこの類の妄言って、どこかで既視感があるなあと、思い返して気が付いたのが、新聞社が必ずといってよいほど用意しているコーナー「社説」。単に社説としての1コーナーだけでなく、拡大版の社説的なコーナーが用意されている新聞社もあるけれど。あれって多分に誰が書いたかは明示されておらず、「社説」とあるからには会社全体の総意としてアピールしているにも関わらず、何か問題があっても誰も責任はとらない的なことを前提としている雰囲気は強い。
そして同時に、その社説上の「新聞というそれなりに信頼度のある媒体上で好き勝手に書き連ねることで、自らの主張・妄言に肩書を載せ、信ぴょう性を底上げさせる」切り口を、そのままソーシャルメディア上でやっている感はある。社説でやらかすような話が多いのは、ソーシャルメディア上で新聞関係者の結構上に居る人達に暴言・妄言が相次ぐのと同じ、その人たちの本質、物書きとしての質の実態が表れている。そう考えると納得ができる。
結局、ソーシャルメディアの普及浸透は、(旧来)メディアに係わる人達の本質、能力の実態を可視化させただけであり、その人たちの質が昔と比べて劣化しはじめたわけではないのかな、という感はある。社説は匿名なので新聞社全体の質を露呈させるのにも関わらず、治外法権的な扱いをされていたけれど、ソーシャルメディアではそうもいかない。
新聞の社説のレベルは昭和の頃から低い低いと言われていました。書誌学者の森銑三に至っては昭和の新聞のレベルの低さに憤慨して同じ月日の明治時代の新聞を読み「こっちのほうがレベル高い」といったそうで(山本夏彦「変痴気論」より) https://t.co/2uH930mMMD
— すんすけ(松平俊介) (@tyuusyo) 2016年6月25日
......という指摘もある。結局は新聞社の内部においては実のところ、元からこのレベルで、昔は権威と、受け手側の情報の共有が出来なかったことから分からなかっただけ、と。新聞の販売部数が落ちていると嘆く声もあるけれど、メディアの多様化以外に、質の低下(の露呈)によるところも大きいのではないかなという気がする。
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