次男がバナナ好きだからバナナジュースでも作ってやろうと思って、次男にミキサーへバナナ入れさせるところまでは本人もうきうきだったのに、俺がスイッチ押した瞬間に「バナナがなくなった!」って涙目になってたしバナナジュースも残した
— かずー (@kazoo04) 2016年7月3日
次男はバナナ味のものが食べたいのではなくてバナナの形とか歯ごたえとか自分で皮を向くこととかそういうのも含めてバナナがすきだったのにそれが損なわれてしまった。ユーザエクスペリエンスの例として検討していきたい。
— かずー (@kazoo04) 2016年7月3日
自分が思っている相手の思いと、当人の思いは、当然差し違えが生じることがある。考えを上手く表現することができない、経験が不足している子供の場合、周囲の人がその本心として持っている思いをすくうのは、より難しいものとなる。それが身内であったとしても。
今件はそれを非常によく考えさせてくれる事案。親は子供が「バナナの味わいを好んでいる」と思って、好意として好きであろうバナナのジュースを創ったものの、子供は「バナナの味」ではなく「バナナそのもの」が好きだった次第。
好きであろうポイントとして「バナナの形」「歯ごたえ」「皮むき」を挙げているけれど、確かにそれらはバナナがバナナ足りえるための大切なポイント。「味わい」だけなら乳児向けのおじやみたいなゾル系の食品でもいいのだけど、それでは物足りない(それ自身が好きなら、それだけでもそれなりの満足は得られるだろうけど。例えばバナナ味の歯磨き粉とか)。
この子供は、そして恐らくはバナナを好きな人の多分は、バナナ味ではなく、バナナそのものの皮むき、中身を口にした時のあの何とも言えない歯ごたえや舌触り、口の中でとろけていく時の甘味、のど越しまで含めた上で「バナナが好き」なのだろう。バナナ味が好きな人と、バナナそのものが好きな人は、同じようでちょっと対象が違ってくる。その違いをしっかりと認識し、表現できるようになるまでには、それなりの経験と学習が必要になる。
例えばステーキが好きな人に、宇宙食でよく見かけるパウチタイプのねり状のステーキ食を食べさせても、確かにそれっぽい味はするし、成分の多分はステーキそのものだけど、味気無さを覚えるよね。そんな感じ。
「ユーザエクスペリエンスの例」と言及されているけれど、相手が求めているように見えるもの、言葉の上で表現しているものと、実際に求めている要素の微妙なずれってのは、意外にあちこちに存在する気がする。気を付けなきゃいけないね。まさに「顧客が本当に必要だったもの」なわけだ。
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