「コンテンツは文字ではなく本人」の意味を考えてみる

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色々な解釈ができる「コンテンツは文字ではなく本人」。ソーシャルメディアの利用に限ると、一つ一つの語りの内容は、そのアカウントを構成し、逐次積み上げていく要素であり、全体として本人そのものがコンテンツとなる......と考えれば理解はできる。

ゲームのクロスレビューでも単品のレビューそのものではなく、各語り手の背景やこれまでの実績、書き連ねてきたレビューの数々があり、それが語り手の信頼性につながり、その語り手の創生物に付加価値をもたらしていく。映画の評論家とか書籍の批評家、さらには軍事や経済評論家にしても同じ。コンテンツは創られた一つ一つの生成物には違いないけれど、それを成し遂げた人、集団、企業の背景があってこそより確かな評価を受けられる。

インターネット上ではお気軽にコンテンツを取得できるけど、それは商材にはなりにくい。ただで手に入るものがたくさんあるし、それである程度充足してしまえるのは否めないから。それらの商材ではなく宣材が、創り手側の評価の積み増しになる。ネット上にばらまかれた自分のこれまでのあれこれが、自分自身の姿形を構築する材料となり宣材となる。元より過去の経歴は当人の価値を高めることに貢献してはいるけれど、情報が蓄積され検索されるのが容易になったネット界隈では、その概念がより強く現実味を増してくる。

......ただこの場合、創り手はどうやって対価を得ていくのかな、ということになる。特にネット界隈で用いるコンテンツを創り上げている人にとっては。宣材だから対価はゼロ、あるいは廉価ってのが大部分になるのだろうけど、それでは十分な創作活動を続けられない。それでご飯を食べられない、創作に勤しむだけの対価が得られないのなら、その場から離れざるを得なくなってしまうかもしない。

多分にケースバイケースだけれど、収益のビジネスモデルの構築は、ネットが無かった時代以上に頭をめぐらす必要があるのだろうな。宣伝はできて知名度を高め、自らの能力を知らしめる機会は増えても、それが対価付きの評価が得られないのなら、結局道楽以上のものではなくなってしまうのだし。本人を磨くことで、本人をメインコンテンツとすることで、どのような対価評価が得られるか、となると......今一番容易に行われているのは、講演会なりコンサルといった、古いスタイルでの稼ぎの方法なんだけどねえ。これも考え直してみると矛盾している気がして。

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このページは、不破雷蔵が2016年7月16日 07:59に書いた記事です。

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