「理由は何もありません。僕の勘です」で再認識。「私たちは怒っています」とその後の顛末と合わせ、僕たちが信じていた、信奉していたジャーナリズムなるものが、いかにうつろであやうく、もろく、いい加減なものだったのだと。ネットの普及や震災を経て認識しつつあった事柄にとどめをさしたような。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年7月21日
鳥越さんは良く存じ上げませんが。エピソードを聞くにつれ、ネット以前の情報収集と発信を一部の人が独占した時代は、状況が全然違うと思った。メディアだけでなく大学もそう。今ではテレビに出たり雑誌に記事を書くだけでは権威は無いだろうね。ネット以後の時代にメディアで働く人はどう思うのかな。
— 竹内健 (@kentakeuchi2003) 2016年7月21日
先日当方の自宅にも届いた、都知事選の広報資料。各候補者の主張などがずらりと並べられていたけれど、先行取得した人がネットにアップした画像と同じで、コラージュの類では無かったことを確認した上で、あらためて認識をした事柄が。
今都知事選では元やら今やらは別にして複数のジャーナリストの肩書を持つ人が顔を見せている。その人たちの言及や行動や、手元にある資料の内容を目にし読むにつけ、あらためて、これまで自分達が信奉していた(と表現できる)ジャーナリズム、報道なるものが、いかにうつろであやういもので、きわめてもろく、そしていい加減なものだったことが分かる。情報が一過性で一方的で独占的なものだった時代はそれを信じざるを得なかった、信じ込んでしまったけれど、今はもうそうじゃない。言葉は少々キツいかもしれないけれど、子供だましが通用しない時代となっている。
「報道はアテにならない」という意識が浸透しはじめ、「速報性では歩く監視カメラ化した一般人」に敵わず、「情報解析では野生のプロ」に劣る、という状況が生まれ始めた。それでも報道には【裏付けを取る】という価値は残されてるんだけど。
— azukigigbot (@azukigIgbot) 2016年7月21日
報道には最近はもはや「話題提供」という価値しかなくなりつつあるのかもしんない(´Д`)
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年7月21日
無論これも絶対真理で異なる事例は無いってわけじゃない。けれど、確実にその通りとなるケースは増えている。裏付けを取るとの価値云々にしても、価値を見出せる報道がどれだけあるか。そしてその成果、功績を打ち砕く、吹き飛ばすだけのやらかしがどれだけ増えているか。さらに昨今ではその「話題提供」ですら、報道側がネットから取得するケースも増えている。今や「話題提供の手段『の一つ』」でしかなくなっている。
......となると。先祖返りとの言葉が適切か否か疑問ではあるのだけど。それこそ昔ながらの取材スタイルで、足を運んで自分の目で確かめて、さらに現場の感情や印象に惑わされることなく中立的で客観的な視点から事実をまとめ、さらに事実であるか否かの確認を現在のツールで行うという手法が求められることになる。
現在の環境は報道、ジャーナリスト界隈のさまざまな手立てを容易にし、ハードルを押し下げてくれるけれど、それは同時に今まで高みに居たと思っていた従来のジャーナリストの立場がぐんと押し下げられることをも意味する。スマホが普及し一億総カメラマン・フォトジャーナリストな時代。いや、動画ですら取得可能だ。
自分が乗っていた台座が無くなり、不特定多数と同じ高さとなった時、比較されるのは本人自身の力量。上げ底はすでに無い。
昨今色々とぼろが出ている、失望を覚えさせるケースが増えているのは、この上げ底・台座が無くなって、本来の姿が見えてしまったからなのかもしれない。
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