事件報道における「人となり」の必要性の有無は報道サイドが勝手に決めているけれど

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先日発生した神奈川県での某重大事件。事件からまだ間もなく、今後色々な問題との兼ね合わせも合わせ、事実関係が明らかになってくると思うのだけど、違和感を覚えるところも少なくない。これだけの重大事件となれば、必ずといってよいほど連日連夜伝えられるはずの、加害者側の過去における動向や人となり、関係者の話、文集などなどの類に係わる動きが無い。

これは被害者・加害者双方に色々と伝える際における相応の配慮があるからだと考えられる。それは理解できる。けれど同時に、事件をより多くの人に刻ませるために、実名報道はもちろん、多種多様な人物のあれこれを掘り起こすという、報道側が逐次、自らの行動の大義名分として語っているものが、吹き飛んでしまう感はある。

その大義の境界線はどこにあるのか。報道側が自由に線引きできる、つまりは自由配慮で好き勝手にできるという、明らかに憂慮すべき状況には違いない。


報道によって多分に該当者が傷つき、十字架を背負うことになっても、それは「事件をより多くの人に刻ませるため」という大義名分があるから許されるとの考えであるのなら、それは罰の執行権を有しているに他ならない。つまり報道界隈はいわゆる三権分立のうち、司法と立法の双方を、独自解釈の権限の上で有していると見なす事もできる。俺達が法だ、法は俺達が決めて、俺達が裁く。そんな感じ。

ならば今件も従来事件の報道のように詳細に伝えるべきだとでも、というわけではない。むしろこれまでの各種事件報道も、今後も、被害者や加害者がどのような状態、立ち位置であったとしても、今件同様の十分な配慮がしてなされるべきに違いなく。「配慮なんてできるわけないじゃん」というのなら、今回事案に関して、過去の重大事件の時のような、被害者や加害者に対する報道姿勢を示さず、半ば以上自粛しているのは、どう見ればよいのだろうか。


方向性は随分と異なるけれど、例えば国会での「女性の壁」事案の際に、女性の権利を高らかに語る団体がおだんまりを決め込んだり、報道界隈もほとんど問題視しなかった時のように、絶対正義とか社会的正義、倫理観を御題目に挙げておきながら、実態としては自分の都合の良い「叩きツール」「稼ぎ道具」としてしか使っておらず、その判断は好き勝手に行えるってことを暴露してしまったわけなのだね。まぁ、スマップの離脱問題も良い例かな。


ちなみに。報道界隈が実名報道や被害者・加害者の掘り起こしを殊更に行う大義名分の一端が見えるのが、指摘されている主張記事。「私たち記者は正義、がんばる」なんだよね、要は。その正義は本当に正義なのだろうか。記者界隈にとってのみの正義となっていないだろうか。

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このページは、不破雷蔵が2016年7月27日 07:25に書いた記事です。

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