今の世の中でデモに否定的な人が増えてきたのは、「別にデモという手段を使わなくても個人でも主張を広く届けられるようになった」からだと思うよ。デモは「デモンストレーション」であり、昔は市井の人が世の中に主張を届けたいと思ったら手段が限られていて、その少ない手段の一つだったからね。
— cocoon (@cocoonP) 2016年8月1日
逆に言えば、今の世の中では、デモなんていう手段に頼らずに主張を届けることは可能なわけなので、そのうえでデモという手段をとっている「目的化したデモ」に固執する人種が気持ち悪がられ忌避されるのは当然の帰結。
— cocoon (@cocoonP) 2016年8月1日
デモ、正確にはデモンストレーションは、ソフトなどのアピールをするために展示用端末で走らせるソフトのデモンストレーション的な感じで使われる場合もあることからも分かる通り、不特定多数に向けた披露との意味合いを多分に有している。
他方、政治・思想的なアピールのために大声をあげたり同じプラカードをかざしたり街中を行進したり不法な占拠活動をするタイプのデモは、する側からの意見としては正当な権利の行使に過ぎないとの話ではあるけれど、世間一般の目は冷たく、厳しく、否定的。する側の多分は「昔はこんな否定的なものではなかったのに」との地団駄的な意見を有しているかもしれないし、そのような声も漏れ伝わってくる。
否定的な意見が増えた背景の一つとして今回指摘された切り口は、色々と腑に落ちる部分がある。これって従来型メディアの衰退......というか実態の暴露と相対的立ち位置の減退と構造的には非常に似ている。不特定多数に伝える手段がごく限られた人たちにしかなかったから、メディアは貴族的なポジションを維持できた。それらの人たちに注目して取り扱ってもらうために、多くの人を動員して見てもらう必要があったし、多数の人が色々騒いでようやく、不特定多数に意見を見聞きしてもらえるようになった。
でも今は違う。誰もが手法と運と努力があれば、世の中に声を聴いてもらうチャンスが存在する。従来型メディアやデモの力が皆無になったわけではないけれど、「そのような手法もある」になっている「それらの手法しかない」では無い。
思いっきり雑な例えになるけれど、今では自転車でも自動車でも飛行機でも鉄道でも遠出ができるので、未だに馬車にこだわって移動するようなもの。はたから見れば「なんだろう」と思われても不思議では無い。馬車に乗る事自身を目的としてしまっていると見られても仕方がない。そして馬車は風情があって良いけれど、デモは不特定多数に迷惑をかけてしまう。
まあ、そうなるよなあ。
— はくまに@もあい? (@haku_mania_P) 2016年8月1日
もはやあいつらの「デモ」って、それ自体が目的化した「お祭り」だからなあ。参加者が気持ちよくなって騒ぐもの、って意味以上のものは一切なくなってしまった。あいつらのせいで。
昔は「人数を集めれば新聞やテレビが全国に知らしめてくれる」から、デモンストレーション(示威行動)をしてたってのは同感。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年8月1日
個人がブログを「ニュースサイトだ」と言い張って情報発信できるようになり、要するにメディアの強みだった「印刷、配布、配信」をネットインフラに委ねることができるようになった時点で、「メディアの重要性」は昔ほどにはなくなったというか。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年8月1日
デモを自己陶酔運動と表現するのは言い得て妙。お祭りはまだ当事者だけでなく周辺をもハッピーにさせるけれど、今のデモはそうでは無いからねえ。まぁ、ある意味デモと旧来メディアは一蓮托生的な関係にあると見てもよい......というのは雑すぎるかな。
そして「(従来型の)メディアの重要性」は昔ほどにはなくなったってのは、確かにその通り。重要性というか崇め奉る必要性というか、唯一の選択肢では無くなったって事だね。
そして新メディアであるネット界隈は、これまでのメディアと違い、双方向性の特徴を持つのが重要な点ではある。発信側の一方的な押し付けの意図が、上手くいかない事も多々ある。デモ界隈が自慢げに自分達の運動を動画や写真として残してアピールする形でウェブに挙げていても、それがネガティブな意味での証拠となってしまい、ツッコミが入りまくるという事実には、あまり気が付いていない感じがする。これも結局は、従来型のメディアと同じ認識で、ネットを使っているのだろうなあ、と。
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