「候補者に失礼なことを言って怒らす」のはジャーナリズムでもなんでもない

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編集者でライターの速水健朗(はやみず けんろう)氏は、「直撃LIVEグッディ!」への質問に対する苦情に対して「バラエティー番組の役割がある」「候補者に失礼なことを言って怒らすのも、僕はむしろひとつのジャーナリズムだと思う」と説明する。


続けて、速水氏は「そこから本音や本性が出てきたり、真面目なだけの報道番組ではできない」「お笑いの人たちが出てきて質問するのは、僕はいいことだと思う」と持論を展開していた。


そもそも論としてJ-CastやライブドアのTOPIC NEWSのように、テレビ番組のあらすじを語るだけでニュースとしてしまうようなものは、テレビの早朝やワイドショーの時間帯における新聞のあらすじ紹介コーナーと同様、職務怠慢的なものというか、コピペ的まとめサイトとどこが違うのだろうかというあれこれ思う所もあるのだけど、それはそれとして。

都知事選そのものが候補者やその周辺の都議会議員の質のありようをよく知ることができた、色々と頭を抱えさせられたものではあったのだけど(特に旧態依然の都議会議員と「ジャーナリズム」「ジャーナリスト」の権威はマリアナ海溝まで落ちた)、都知事選に絡んだ報道も普段の報道界隈の質の低さを改めて認識できる良い機会には違いなく。

そしてそれに対する指摘とその反応でも、ジャーナリズム、報道界隈のリトマス試験紙となっているのだなあ、というお話。特に「候補者に失礼なことを言って怒らすのも、僕はむしろひとつのジャーナリズムだと思う」の部分は、以前にも何度か触れていることを改めて考えさせられる。報道・ジャーナリストなら何をやっても良いのかということ、怒らせて語らせた内容はその人の本質として認識して良いのか、ならばジャーナリスト自身も同様の事をやられても文句はいえなくなるし、取材を受ける側は最大限の警戒が必要になる。極論として、相手を殴って語らせるのと同じだからね。そのような手法を平然と語り、誇りにしているように主張する、それこそが低レベルだというのが分からないのだろうか。いや、分からないから低レベルなのだろう。

もしかして昨今の、ジャーナリストや報道界隈における選民意識的なものの露呈って、「ジャーナリズム」とか「報道」を、何でも好き勝手に出来るオールマイティカードと勘違いしている、その勘違いから来ているような気がする。何をやっても良いフリーパスを持っている俺が、なんで糾弾される、文句を言われなきゃならないのか、相手に拒まれなきゃいけないのか、的な。

大昔はそれに近い権限を与えられていたのかもしれないけれど、今はそうじゃない。質そのものの劣化も生じているだろうし(元からのが露呈したってのもあるけれど)、有している技能、力も絶対的なものではなくなった。権限を悪用するケース・人も増え、信ぴょう性も著しく損なわれ、それを回復させようとする自浄作用も無い。

まぁ、その類は状況の変化に応じて色々と変化していくのだろうし、変化できなければ必要性が減じられて身動きが取れなくなるのだろうな。頼むから周囲に迷惑をかけないでくれ、とは思うのだけど。

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このページは、不破雷蔵が2016年8月 8日 07:46に書いた記事です。

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