「失礼なことを言って怒らすのも、僕はむしろひとつのジャーナリズムだと思う」。実は非常に危険な考え方で。何らかの手法で当人が望んでいない事を語らせるのを是としてしまうと、極論として相手に強制力(例えば監禁や暴力行為、脅迫)を用いて語らせるのもあり、ジャーナリズムとなってしまいます。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年8月7日
『極論として、相手を殴って語らせるのと同じ』 『何をやっても良いフリーパスを持っている俺が、なんで糾弾される、文句を言われなきゃならないのか、相手に拒まれなきゃいけないのか』 https://t.co/LoCUvUNieu #メディアリテラシー
— k-takahashi (@k___takahashi) 2016年8月8日
先日の【「候補者に失礼なことを言って怒らす」のはジャーナリズムでもなんでもない】をアップした後に気が付いたこと。取材対象者の感情を逆なでして怒らせ、本音を語らせることこそが一流の記者でありジャーナリズムだ云々ってのは、今件の記事で語ったライターに限らず、多数の報道界隈が以前から言及しており、今サイトでも何度か取り上げたお話ではあるのだけど。
これってよく考えてみたら非常に危険な話にも違いない。何らかの手法、今件ならば相手を挑発したり怒らせるという方法で、取材対象者が本来望んでいない事柄を語らせ、明らかにさせるのを是としてしまうと、その「怒らせる手段」ってののラインが無い以上、何でもありになってしまう。取材対象者に暴力行為を成したり、脅迫をしたり、実被害を与えた上で、語らせるのもジャーナリズムとして正しいことになってしまう。
倫理観と常識で自らの自主規制を行うはずだとの意見に関しては、「取材対象者の感情を逆なでして怒らせ」との時点ですでにそれらのラインを踏み越えているので、何の説明にもならない。
@Fuwarin 警察の「自白の強要」と似たようなものになりますからね
— 花咲正直(鬼退寺桃太郎) (@hanasakimasanao) 2016年8月7日
指摘の通り、普通の意識の状態で語りたくない、黙っている内容を、その意思に反して語らせるのは、その語りを誘引させた行為が語りの強要にも直結する。そもそもこれも以前言及したけれど、人の口から語られた文言が、すべてその人の思い、内情、記憶を表しているとは限らない。印象の受け止め方の違いや記憶違い、表現の仕方のミス、言い間違い、パニクっていて関係の無いことを話してしまうこともある。それを事実だ、真実だとされてしまうのでは、たまったものではない(人前で語るとあがる傾向にある人は、この辺りは良くわかるはず)。
この辺の問題も結局のところ、「報道界隈、ジャーナリストは何をしても許される」との認識から来るのだろうなあ、と考えると納得ができるものがある。つまりはその特権階級的意識とそこから発する行動様式が、さまざまな問題として露呈しているのだろうな。
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