戦争の記憶受け継ぐのは・・・ 遺族の"世代交代" | NHKニュース https://t.co/6BzgHPeVlc
— 三重県民@おっぱい探求者 (@Mie_Kenmin_MK) 2016年8月15日
これは大変危険。なぜなら記憶とは風化もしやすいが改竄もしやすい。故意でなくても記憶はその後の経験で必ず変質してしまうから、客観的で正確な記録こそが重要
先日の終戦記念日に合わせ各方面で、かつての戦争(太平洋戦争)における記憶を継承するとか伝えつむぐ的な話が見受けられた。いや、今年だけで無く毎年だね。ただ、その界隈にとっては反応が鈍いので、あまり面白い状況ではないらしい。そりゃそうだ。ずっと過去の一時の戦争にばかり注視して、現状の戦争に絡んだ話はまるきしパスしているどころか、意図的に目をつむっている感すらあるのだから。毎週放送されるアニメ番組が、毎回同じ回ばかり放送されるようなもの。
加え。上でも指摘されているし、以前も交通事故周りやズバリ戦争体験者の話としてあげたけど、人の記憶、体験談は得てして印象論が前面に押し出されるし、さらには個人の考えが多分に混じる。さらに個々の人の持つ物差しは一様ではないので、記憶される状況も大きく変化する。交通事故や災害現場の目撃証言で、目撃者の証言がすべて一致するなんてことは滅多にない。イメージや断片的な情報、誤認、パニック的な意思判断による記憶などで、ぐだぐだになる。その意味では昨今普及が進んでいるスマホによる写真・画像の方が、よほど資料性は高い(これもまた撮り方などよる注意が必要になるけど)。
第一、記憶ってのは多分に上書きされてしまう。子供が昔親から聞かされていた話を、自分の体験として誤認識してしまうってのが良い例。不正確、不鮮明な記憶を引き継げば、歴史はゆがめられ、一部の人の思うがままに改ざんされてしまう。
正確さを失い半ば架空戦記となった「戦争の記憶」とやらに何の価値があるか。それこそ歴史の湾曲でないか。
— 三重県民@おっぱい探求者 (@Mie_Kenmin_MK) 2016年8月15日
大切なのは誰かの肉声であるということではなく、正しく記録された証言であるか否か。
語り部至上主義に正確さより情緒を優先する危うさを感じる。
例えば「六人でキャンプにいった」が翌年には「六人ぐらいで」になり数年後には「十人ぐらい」になりやがて「十数人ぐらいで」となった証言を聞いた第三者が「数十人でキャンプした」と記録してしまう危険性があるように。
— 三重県民@おっぱい探求者 (@Mie_Kenmin_MK) 2016年8月15日
とりあえずさ、新たな戦争遺構が見つかるたびに「悲惨な戦争の記憶を風化させないために云々」ってやめにしない?
— 三重県民@おっぱい探求者 (@Mie_Kenmin_MK) 2016年8月15日
情緒的な目線は学術的価値をガン無視しがちだからなあ。
父方祖父のように「語らないまま亡くなる」「一部だけ語って亡くなる」事例も少なからずあった事を考えると、「話せる事だけ話してる」という点を考慮せず、語り手ばかり重視するのは記録性としても、どうかな。
— KGN (@KGN_works) 2016年8月15日
そもそも、あの敵性語云々も跳ねっ返りのやらかしですし... RT @chiemityanyo ドラマなんかでは英語は敵勢語だから禁止って言われてますが職種や学部によりますよね。実家の父親は獣医学部だったので英語を必死で勉強したとよく聞かされました。
— KGN (@KGN_works) 2016年8月15日
「アプスリー・ハウスとワーテルロー展」 https://t.co/vzgzrhuR00 ワーテルローの戦いは大変複雑で全体像を把握しにくく、後でウェリントン本人が、同じ戦闘を経験した者からであっても同じ報告を聞くことはできないだろうというようなことを言っていたそうだ。
— saebou (@Cristoforou) 2016年8月15日
↓これってたぶん非常にセンスのある発言で、戦闘に限らず大がかりで複雑な出来事って同じことを経験した人でもいた場所とか業務内容によって証言が食い違ったりするのはわりと普通ですよね。
— saebou (@Cristoforou) 2016年8月15日
「架空戦記小説」とは言い得て妙だけど、まさにそんな感じになる。肉声は、体験者の意見はリアルではあるけれど、分かりやすいかもしれないけれど、それが正しいとは限らない。印象が、記憶違いが山盛りの可能性は否定できず、さらに語り手の印象操作の可能性が成されている、ごく一部分を切り取って全体のように見せている可能性もある。例の「煽情ジャーナリスト」が良い例だ。
これは歴史的な問題に限らない。何らかの事件、事故に係わる話においても、片方のみの語りですべてを判断してしまうと、全体像がつかみにくい、誤誘導されてしまう可能性が多分にある。仮にその人が語っていることが事実だとしても、それが全体像を確認するための情報のすべてだろうかと考えれば、容易に理解はできるはず。
今の児童らには「戦争の悲惨さ」を知る機会はあっても「戦争はなぜ起こるのか」「戦争が終わった後の社会は戦勝国、敗戦国でそれぞれどうなるのか」を知る機会が十分にはないのではなかろうか、みたいな話題が昨晩発生してたな。
— Keiji Iwamoto (@kiwamoto) 2016年8月15日
むしろ頭でちょっと触れたけど、そもそも論として「戦争」って何だろうとか、戦争のメカニズムとか、戦争の起きる前・起きた後の関連各国の動向などを、歴史体系として学ばせることの方が、多分に重要性は高いし価値があるような気がする。単に「戦争」をマジックワード的なものとして、それっぽいものは全部石をぶつけてしまおうってのは、数百年前の民間信仰と何ら変わりは無いんじゃないかな。
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