「実名報道は大切な内容を読者の心に刻むために必要」
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年9月3日
『そうだよ』
「社説は会社全体の意思として皆に披露したい論説」
『そうだよ』
「ならば社説も実名、記名記事にしましょう」
『...』
「読者の心に刻みたくない、軽々しい話を会社全体の意見として毎日載せてるのですか」
『......』
事あるたびに話題に登る、実名報道の是非。報道側は読者・視聴者の心に刻むためには具体的な人物の符牒としての実名を挙げ、その背景などを事細かに説明する必要があると主張して譲らない。で、過去の重大事件のうち、どれほどまでが実名を覚えられているだろうかと思い返すと、「こんな感じの事件はあったよね」はともかく、その加害者、被害者の実名をさらりと口に出せる人はどれだけいるのだろうか、的な感はある。
先日もちょっと触れている、麻疹事案にしても、トリガーとなった人物の実名や具体的背景などは報じられていない。けれど十分以上に事案は人々に注目を集め、話題に登っている。実名上げなくても何とでもなるじゃん、みたいな。
関係者の実名を出してこそ、語られている内容に重みが増し、受け手の心に刻む事ができる。その主張を続けるのなら、どうして新聞各社の社説はいまだに匿名扱いなのだろうか。
......ということで至った発想が上の言い回しな次第。会社全体の意見だから書き手本人の名前を挙げる必要はないとするものかもしれないけれど、それでは心に刻むことは難しいよね。主張通りなら。そしてそのような軽々しい話を会社全体の意見として、毎日新聞という半ば公器に掲載するのはおかしな話には違いない。
雑誌、専門誌の類にも似たようなコーナーはあるけれど、大抵は編集長だったり編集局員だったりが書き手で、しっかりと誰が書いたかは示してある。書き手と紐付けされ、さらに各雑誌の校正を通った上で掲載されている。だからこそ、読み手には受け入れられやすい。
新聞社は駄文を毎日、社の名前を用いて、読者に提供することを文化事業として認識しているのだろうか。
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