反社会 反体制が 報道の 証とするなら そんなの要らない
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年9月10日
反社会・反体制が報道の存在意義として成立し、多様な特権を国民から得られたのは、社会や体制が国民全般に対して悪を成し、打倒すべき存在である状況下においてなのですよね。しかもそれは監視のみで、直接攻撃までは許容されていませんでした。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年9月10日
昨今ではむしろ、報道やジャーナリズムが多分に国民全般に対して悪を成すような界隈へ助力する傾向が強い感があります。また、監視のみの権限のはずが、報道の力・特権を用いての直接攻撃にまで至っているのが実情です。実名報道や、伝えない自由などが好例ですね。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年9月10日
このような話をすると必ず物事をゼロか1かで判断してしまう人がいるのだけど、決してそうではなくて、あくまでもそのような方向性を示す挙動、性格を有するあれこれが増えてきたということで。まぁ、実際、ジャーナリストを自称する人や報道関係者では多分に、この社会・体制への反対姿勢、監視行動という名の実質的な実力行使こそが自分達の責務であり正義であり市民からも支持されるものであると自負するどころか公言する人達も多々見受けられるわけで。
ただそれって、例えばルーマニアのチャウシェクス政権とかロシア革命時の帝政ロシアとか中世の王侯貴族社会で腐敗した末期状態ならともかく、平穏無事な社会環境下の中で、それを多分に振りかざし、ましてや社会の安寧に逆行するような動きを示す、そのような挙動を見せる界隈の後押しをするようでは、本末転倒な気がしてならない。その動きが見えているのも、昨今の報道不審につながっている感は強い。
ジャーナリズムが政府に対して「正義」のポジションを取れるのは、政府が「有権者にの多数によって選ばれていない場合」で、有権者の多数が政府を選べる制度が健全に維持されている場合、政府は「有権者の多数に委任された代理人」なわけだから、「圧政を行う悪い政府」ではなく。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月10日
健全に政府を選出する機能が維持されている社会にあって、政府を「悪」と位置づけて己を正義としようとすると(報道も野党も)、それは「政府を委任した多数派の有権者を悪と決めつける」ことと同義語になるわけで、そら、「そんなジャーナリズムの売上が落ちるのは当然」なんじゃないだろか。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月10日
ジャーナリズムはあくまで「商売」であり「事業」であり「産業」である(従事するだけでどこかから金が湧いて出るわけではない)のだとすると、「市場の開拓、拡大、獲得」はやっぱ必要になる。つまりは「市場に媚びる必要」は必ずあるわけで。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月10日
んでも「より人数の多い多数に媚びる」ことよりも、「より確実に躍ってくれる少数を囲い込んで買わせよう」という方向の、ある意味「既得権益を囲い込む手堅いビジネス」「保守的な商売」のほうに軸足を移してんのかな。今のジャーナリズムって。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月10日
......という話をしていたら、あずき先生がすっきりする形で要約してくれたので、大体絡めてみる。そもそも論として王政や独裁下、軍事政権下ならともかく(昨今では北朝鮮や中国などが好例)、民主主義の選挙制度によって成立した、民主主義政府においては、指摘の通り、有権者の代理人へのツッコミは一歩間違えるとその有権者自身への否定にもつながる(まぁ、この辺りはよく言われている話ではある)。
実のところ、本家記事でも何度か取り上げている通り、米国のみならず投票制によって政府を構築しているような民主主義国家の大部分においては、新聞やテレビなどの従来型メディアで形成される報道、ジャーナリズムに対する不信感は日本やアジア諸国と比べてはるかに強い。本家記事ではこの傾向について「アジア的価値観によるものでは」との推論を立てたけれど、今件の指摘であらためて考えてみると、投票制度に寄らない政府の設立(期間が長いか否か)も多分に影響しているのではないかな、と思ったりもする。その意味では、やはり日本は特異なのだろう。あるいは、状況に対応できない報道界隈が、そのような価値観を押し付け続けていた、それが最近になってようやく剥離しつつある、のかもしれない。
「既得権益を囲い込む手堅いビジネス」「保守的な商売」のほうに軸足を移している云々ってのは、多分に高齢層向きとか、ベクトルは違うけど新興宗教的なものとか(反原発運動とかEM菌とか江戸しぐさとかエセ医学とか)、あるいは有料メルマガとかその辺りかな。規模は違うけど、発想的には似たようなもの。
でもなー。落ち着いて考えてみたら、政府とジャーナリズムが対立構造になるっていう考え方がそもそもおかしいんだと思うんだよ。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月10日
民主主義は「不特定多数の国民=有権者」が委任者としての議員を選ぶ仕組みで、そのためには有権者は「より正確な判断材料」を得なければならない。
有権者の大多数は「個々の専門分野には通じていても、専門外については門外漢(素人)だから、議員を選ぶ判断の目安にするために、判断材料となる知識・情報がその都度必要になる」わけで、民主主義を健全にするためにジャーナリズムは有権者に情報を供給しなきゃならない。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月10日
この場合の情報は「正義の情報」ではなく、「正確な情報」でなければならない。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月10日
正確な複数の判断材料を踏まえて、有権者は個々がそれぞれに判断し、その中で最大多数の委任を受けた議員、政党が政府を形成する。
不正確な判断材料を使ってジャーナリズムに都合のいい正義を作るのは民主主義の破壊。
でもなー。マジメな、或いは熱心なジャーナリストほど、「正確より正義」に踏みこんでしまう。不勉強な正義漢が何をもたらすかは、皆もう痛い目に遭ってるから言うまでもないと思うけど、まあそうなる。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月10日
また、ジャーナリズムは「自分達が間違っている可能性」を激しく厭う。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月10日
ゴネにゴネて間違っていた事を受け容れる場合も、謝罪は最小だし、誤報の当事者は退社した後だったりするし、世間が飽きるか忘れるかした後になってから「メンゴ」とか言い出す。
もうその時点で「判断材料の足しになる正確な情報の供給」に、ジャーナリズムは失敗してんだよなあ。その意味で、自分達の間違いを正せないジャーナリズムは、「民主主義を健全に運用するための、大多数が門外漢で形成されている有権者群」に対して、求められることを果たせてないとは思う。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月10日
その意味で、イエロージャーナリズムだとか、パフォーマンスや煽動を念頭に置いたジャーナリズムっぽい何かの多くは、その実態は「journal(新聞)」ではなくて「propaganda(宣伝)」止まりなんだよなあ。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月10日
有権者的には大変困る。
で、ジャーナリズムの本質というか、本来あるべき姿ってのも、この考えに近しい。この発想に基づくならば「旧態依然の独裁的な政府や社会体制は情報を隠蔽しがちだから、ジャーナリズムは正しい情報を適切に取得し、判断材料として頒布する」ということで、自然に「悪い政府」と対立することになる。結果と目的と方向性がぐちゃぐちゃになったのが、今の報道の姿の一要因なのかもしれない。今じゃ多分に、情報の正確性を求めるため、むしろ報道ではなく、一次ソースである発信元の政府の議事録や映像資料を精査しなきゃならないという、逆の事態が生じているからねえ。
そこで「素人だから仕方ないじゃん、てへぺろー」でやられたのでは、たまったものではないわけだ。そしてだからこそ、「正確より正義」に違和感を覚えねばならない。なので、先の「私たち記者は正義、がんばる」に、今の報道の危うさを強烈に感じたわけだな。
今の日本の自称ジャーナリズムは、実質的にプロパガンダリズムになっている。その指摘はあながち間違っていないのかもしれない。
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