「一次ソースがある」
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月10日
「供給者が必ずしも営利ではない」
「記者よりも造詣の深い野良スペシャリストの、未編集の意見が読める」
という理由で既存のジャーナリズムよりネットに軍配が上がるようになったのは、一応1995年以降のこの20年間てことでいいかと思う。
先の都知事選の立候補者の一人のジャーナリストが、現状だけでなく過去のジャーナリズムの少なからずにおいて、かなりのぐだぐだであったこと(当事者が重鎮的な扱いをされているところが多分にあったところも合わせ考えると、本人だけというのは考えにくい)を合わせ考えると、むしろ「元々質はこの程度で、唯一不特定多数に情報発信できるツールを持っていたから、ジャーナリストとして大手を振るえた」「今は情報発信のハードルが下がったので、元々の発信内容の品質への精査が深まり、相対的に『情報発信ツールを牛耳っていた』ジャーナリストと呼ばれた人達の評価が下がった」と思っているのだけど。
前兆的なものは調べ返すに、指摘の通り前世紀末ぐらいからだった感はある。ただ、本格的なものとなったのは、従来型携帯電話の普及浸透、スマホへのシフト、そして震災。この3つがターニングポイントだった感はある。具体的な数量化ができないので、あくまでも雰囲気だけど。
PHSにも色々と個人間情報交換の勢いが増したらしい話はよく見受けるけれど、不特定多数への情報発信までは達していない。むしろ従来型携帯電話における勝手サイトの浸透とか、いわゆる「ケータイ小説」辺りが大きいかなあ、と。もちろん色々な掲示板も。
2chなどの掲示板、その後のブログ、SNSの隆盛によって「既存ジャーナリズムの枠組みに依存しない、ニュースの【解釈】や【掘り下げ】」が可能になって、それがますます「商売としてビジネスとしての利益を優先するジャーナリズム」に対する疑念や忌避を進めた面は、まあ否めないだろな、と。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月10日
ジャーナリズム、ジャーナリストが、その消費者(=読者)から見て、「悪」であったり「安愚」であったり「愚昧」であるかのように誹られているっていうのは、ジャーナリストの多くもまた「それほど幅広く何にでも対応できるマルチスペシャリストなどではない」からじゃないかなー。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月10日
これ前にも書いたな。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月10日
ジャーナリストに求められるのは取材力と取材した内容について「専門知識を噛み砕いて説明する能力≒専門知識」だとは思うんだけど、現代社会は様々な多様な分野がニュースになり、高度に分業化が進みすぎて、一握りのジャーナリストじゃ対応しきれなくなってる。
わかりやすいのが、朝のニュースバラエティに呼ばれるコメンテーター。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月10日
どう考えてもお前も専門家じゃないだろ!? っていうのに、特定分野に対する感想や提案を喋らせる。
掘り下げることが可能な人材が、情報発信の手段を得られるようになった。そしてその情報を投げることで、集合知が生じることにもなる。専門家、ジャーナリストを集めた討論会的なものが、日々行われているようなものだ。
一握りのジャーナリスト界隈では無理なら、二握りでも三握りでも用意すれば良い。それが時代の要請。それができないのなら、品質に問題があると指摘されても文句はいえない。チャーハン専門店が需要に応えてラーメンや餃子、焼売、野菜炒め、さらにはグラタンやカレーまで用意するようになったけど、どれもこれも中途半端で味も今二つ。当然お客からは文句を言われる。だからといって、お客に逆切れしたり、専門店の超おいしいメニューですとウソをいえば、距離を置かれ客は離れていくのは当然の話。
@azukiglg マスメディアの「報道」って構造的に「門外漢が門外漢向けへの情報発信」になりますからね(´・ω・`)<「専門家が門外漢向け」だと広報的になるし「専門家が専門家向け」だと業界誌的に
— 花咲正直(鬼退寺桃太郎) (@hanasakimasanao) 2016年9月10日
もちろん、台本があって彼らはそれをなぞってるに過ぎないんだけど、台本作ってる人がこれまたそれほど幅広くフォローできてない。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月10日
これは、ニュースバラエティの台本書いてる人がバカだ無能だって言ってるんじゃなくて、一個人がフォローアップしきれるような狭い専門じゃ足りないって話で。
結局のところ、情報発信をすべきジャーナリストが、キャパオーバーになってて、情報を求めてる読者・消費者の期待するレベルに到達できてないってことじゃないのかしらん。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月10日
まあそれでも既存のジャーナリズムに我々が依存してる部分はゼロにはならない。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月10日
速報と概要などを発掘する、拾ってくるってのはPCやスマホの前にいるだけの消費者にはできんものな。
ただ、「速報」に関しては場合によってはジャーナリズムのほうが後手になり始めてるよね。
これは、ネットインフラの整備とSNSの普及と、高精度の静止画・動画をほぼリアルタイムに発信できる端末装置としてのスマホの普及がドでかいと思う。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月10日
二昔前なら事故現場に記者が「駆け付けて」たけど、今は「その場に居合わせた民間人のスマホからの配信」のほうが早い。速報性ではもう勝てない。
「門外漢が門外漢向けへの情報発信」。現状の報道は多分にこれ。分かりやすいかもしれないけれど、正しいとは限らない、むしろ間違ってる的なものとなっている。本来なら「専門家が門外漢向け」が一番ストレートなのだけど、専門家は概してそのようなことには長けていない。なにしろその必要は専門の研究には必要ない、優先順位は低いのだから。なので、「専門家の語る内容を咀嚼して門外漢に分かりやすく情報発信をする、正しい知識を持った翻訳者、ルーター的な存在」が欠かせない。今の報道にはそれが求められている。
無論そのためには、ある程度の専門的な知識が必要になるし、分かりやすく解説するための技術も有していなければならない。ある意味、それをするための専門家ともいえるだろう。今後はこの立ち位置の人材が求められるはず。
色々と指摘はされているけれど、大雑把に集約すると、情報の集約も発信も、そして情報そのものも、この10年、20年の間にダイナミックなまでの変貌を遂げている。特に情報そのものの質の変化はインターネットの普及により、恐らくは人類史上これまでに経験したことがないであろうほどのレベルに達してしまっている。
にも関わらず、旧態依然の仕組みと陣容で対応しようとするから、あちこちに問題が噴出し、さらにこれまでの内情までもが暴露されてしまっている。今の山手線に、明治時代の蒸気機関車と客車を使って乗客を運搬しようとしているようなもの、と表現すれば分かりやすいだろうね。
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