SNSの発達と普及によって、「新聞記者の素養は取り立てて突出したものではなく、情報の処理能力や基礎的知見素養については、ヘタすると新聞読者(または非読者)の一般人より劣るケースが多い事実」が判明するようになったことが、ジャーナリストのオピニオンリーダー資質が疑問視される原因でわ。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月17日
SNSは馬鹿や迂闊を可視化しやすいが、それはバカッターに対してだけでなく、「知的上流にいるはず」という自負のあるジャーナリストにも当てはめられていて、積極的な情報収集者は、「知的上流者の実態的素養」を検証しやすくなってきた、ということなのかも。かも。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月17日
これは何度か断片的に書き記している話でもあるけれど、大手新聞社の重鎮、それなりの高い地位を有する記者界隈が相次ぎ妄言や問題発言、記者としてどころか大人としての常識を疑われるような発言を繰り返し公知し、その実態を暴露しているのを見るにつけ、やはり思っていることは皆同じなのだなあ、という感はある。意識高く実力も努力も高いと思われていた記者貴族が、実のところ意識だけが高い存在でしかなかったというお話。ある意味、可視化の良い例に違いなく。
ジャーナリストが「知的上流」という特権を得ていられたのは、従来、「情報配布インフラが巨大で、その先端の入力部分はジャーナリストに寡占されてきた」からだろな、と思う。今も基本部分(メジャーな報道事業者のインフラ)は変わってないとは思うけど。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月17日
一方で、発表の場としてのブログ、掲示板、短信を拡散するインフラとしてのSNS、静止画・動画の入力装置(撮影装置)と短文作成装置と情報入力/発信端末を兼ねるスマホの普及は、「情報インフラの入り口」を一握りのジャーナリストに寡占させなくなった。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月17日
「誰でも情報の上流になれるし、情報拡散インフラを活用できる(拡散されるに価する情報を得られるかどうかは、装置の問題ではなくて、文才と画才と運の問題w)」ようになったことで、一握りのジャーナリストの特権は失われたけど、「ジャーナリスト」を気軽に自称できるようにもなった。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月17日
「カメラを持って戦場に行けば、それだけで戦場カメラマンになれる。死なずにフィルムを持ち帰れば。死なずに情報送信できれば」
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月17日
というのはともかく、「スマホひとつ持っていれば、誰でも【その場に居合わせさえすれば】【自分の言い分を書く文章力があれば】ジャーナリストになれる」ようになった。
そして従来の報道がさまざまな社会的特権、優遇措置を受けて、崇められていたのも、ひとえにこの社会的な有意性を持つ「不特定多数への情報散布ができるインフラ」を利用できる、数少ない存在だったからに違いなく。見方を変えれば、それのみが報道を優位たらしめた存在だった。中身はレベル1の戦士だけど、魔法の鎧に身を固め、魔法の剣を持っていたから、魔物を倒すことができ、村人からは賛美されていた。
でも魔法の鎧や剣が量産化され、誰もが使えるようになると、いや逆に魔法の剣や鎧が使い物にならなくなったパターンでもいい、どちらにしても中身の部分での差、例えば剣技とかが認識されるようになる。
そういう素人の自称ジャーナリストと、それで食べていると自負するプロのジャーナリストの違いはというと、
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月17日
1)SNSではない既存の事業インフラを発信源としている
2)発信情報を「売る」ことで糊口を凌いでいる
3)〆切と品質を守っている
とかであるとは思うんだけど......
〆切はともかく、「品質」については最近疑問符が付く「プロのジャーナリスト」は増えてる気がする。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月17日
恐らくは、「ひとつの(当人の専門とする)分野についての情報発信だけでは、食べていけなくなった」ってことなのかなー、という気もする。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月17日
「自称ジャーナリスト」という商売敵や、ジャーナリストではないけどコアな情報発信をする匿名素人がうじゃうじゃいると、一分野に特化した「ジャーナリスト」だけでは食べていけないから、自分の専門外についても嘴を挟んで「商域」を広げざるを得なくなる。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月17日
@azukiglg 違う見方をすればブログやSNSの普及でジャーナリストの特権が暴落してしまったとも言える訳で、これに我慢ならない連中(主にジャーナリスト自身)ほどそれ等を軽視或いは蔑視しているのが現状かなあと。
— 愚者@タイダデスネー (@fool_0) 2016年9月17日
指摘では「品質」に関して「最近」との表現を用いているけれど、実のところは元々その程度だったと考えるべきかもしれない。無論ゼロか1ってわけじゃないけど。
でも当然ながら、例えば「農業専門」の人が、食えなくなったからって言っていきなり「軍事」について知識もないのに意見書こうと思ったら、当然ながら的外れになる。それこそ「軍事を専門的に趣味にしている素人」よりも酷いことしか書けない。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月17日
でも、「本来の分野で実績があるから大丈夫だろう」みたいな、これまた素養のない発注元が、うっかり間違えて発注し、それを報道事業インフラに載せてしまい、誤報や誤解を訂正せずに拡散させてしまい、(以下反原発
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月17日
まあ、そういう感じで「プロのジャーナリストが食い扶持を捜して専門外の分野に越境した結果、的外れな間違いを拡散してしまう」というような報道事故は、実は収集が付かないほどに漫然と起きているのではないか(以下冨永格
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月17日
一方で「この人(本、雑誌、新聞)の言うことなら、裏付けを自分で取らなくても信頼していい」という判断を、判断の根拠になる素養を持たない人がどうしていったらいいのか、っていう問題は今後ますます重要になってくるかも。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月17日
例えば、安全保障についてまったく素養のない人は、
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月17日
「オスプレイ配備の意味や意義」
「ヘリパッド移設の意味や意義」
について分からないから、その是非が判断できない。
判断できないから、「信頼できる誰かの判断」に阿ろうとする。
ところが、その「信頼できる誰か」が、【なぜ信頼に価するのか?】についての判断基準を、素養が無いから誰かに阿りたい人はそもそも判断できない。
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月17日
これは、マスコミなどが「識者」に意見を求める構図も似てるかもしれない。
識者の主張について素養がないと誰に意見を求めるかを決められない。
インフラを持っているマスコミに素養がなく、
— 加藤AZUKI【人体模型に近づくな!】 (@azukiglg) 2016年9月17日
情報を判断材料としなければならない視聴者読者にも素養がない。
素養がないものが、「誰が正しいことを言っているのか」を選別するのは難しい(ヽ?ω`)
特定の、専門とする分野ですら多様な意見が交わされ、統一的な見解など無く、さらにはスットコな語りと主張をする輩もいる。ましてや「専門家」との肩書を振り回しているだけで、実は別分野の専門家で該当分野は門外漢であるどころか一般の人よりも劣っていることもある。
他方、伝える側としては都合の良い事を語ってくれればそれでよく、さらに適当な「専門家」としての肩書とか著名であることの裏付けを悪用し、正しいような見せ掛けをしてしまう。ニュースだかバラエティだかわからないような番組で、やはりテレビに良く出ている、知られているというだけで、該当分野にはとんと疎い人の発言でも、視聴者は信じ込んでしまう......ように誘導するのが良い例。
ともあれ。周辺環境は大きな変化を起こしているのだから、自らも変わっていかなければ、生き残れないのは当然の話。動物の進化と何ら変わりは無いのだよね。
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