研究をする学者・先生と、研究費とビジネスとしての研究開発と

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これは企業のお金周りだけでなく、研究開発発表展示会に関するお話し、そして例の科学魔女裁判とも表現できる公開仕分け事業でも触れていることだけど。研究開発をすること自体と、それで収益を上げるための行動は、分けて考えないといけないというのが当方の考え。無論ケースバイケースで、まったく一文にもならない、むしろ浪費するばかりの研究を続けていたら企業は破たんしてしまうけど、見方を変えるとその対象となる研究が本当にお金になるか否かってのは、完成するまで、さらには時間が経過しないとわからない。医薬品の研究開発と似たようなもので、それこそ発芽率の悪い種をばらまいて、とにかく芽が出てくるのを待つ状態。でも種は蒔かねば絶対に生えてこない。蒔かぬ種は生えぬとはよくぞいったもの。

仕訳事業の公開裁判の時にも強く思ったのだけど、企業内の開発部門ならまだしも、大学や官公庁の研究部局の場合、本業の研究以外のことである、採算性云々、資金を稼げるか否かってのは、極力現場にその負担を与えてはいけないと考える。お金周りの考えが求められると、純粋にその作業にリソースを費やさざるを得ず、本来の研究開発のためのリソースが削られてしまう。新たな手立てを入手することもできなくなってしまう。

これは対外広報においても変わらない。お金を稼ぐとか、対外的な広報の話は、研究者、研究部門自身ではなく、それに連動する、あるいは専門の別部局にさせるべき。副業やらアルバイトをしていて、本業がおろそかになるのは本末転倒。そう表現すればわかりやすい。

中には類まれなる能力を発揮し、お金をうまく調達し、研究もそつなくこなすスーパーマン的な人もいるだろう。でもそれができるのはごく一部に過ぎない。それが不可能な、でも研究部門そのものには長けている人たちの芽は摘まれてしまう。イチローに毎日8時間ワンオペのアルバイトをさせて、その上でこれまでのような成績を出すように強要するようなものだ。

この観点でも、やはり有限な社会リソースの再配分、未来が見える、道を繰り広げることができる方面への重点配備が必要なのではないかな、と強く認識させる次第ではある。無論、これも以前触れているけど、罪悪にしかならないような教授などの人員を、縁故やら体面やらを重視して囲い続けている体質も、どうにかすべきだとは思うのだけどね。

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このページは、不破雷蔵が2016年9月26日 07:18に書いた記事です。

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