報道に必要なのは正義感ではなく、責任感と正しい情報の公知

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「報道」という言葉には多種多様な解釈や定義があるので、見方も人によりけりではあるけれど。報道界隈が社会的に多分な優位性を認められ、特権を得ているのは、報道が公明正大で事実を不特定多数に伝えるという、社会的意義のあることを成しているがため。いわば、国が社会全体に役立つことをしているから、税金の支払い義務があっても当然というもの。社会的意義のある存在でなければ、報道の特権などは無く、個人紙や機関紙相応の立場をとられても文句はいえない。

で、正義感は報道に含まれるのか否か、責任感や確からしさ、公明正大さとの優先順位はどちらが先かと考えると、正義感なんてのは二の次三の次となる。第一、その正義感を定義する「正義」とは、誰の正義なのか、誰の認識によるものなのか。そしてその類の「正義」を優先すると、大抵事実や公平さがないがしろにされる。正義という名の大義のためには、多少の犠牲などいとわぬ云々ってやつ。


で、報道界隈に責任感や節度や誠意や公平性や確からしさといった、本来あってしかるべき事柄を求めようとすると、必ず報道関連から「自分たちが萎縮してしまい、偉大なる社会的責務の足かせになる。けしからん」との反論がある。しかしながらそれら常識を求める程度で委縮する「報道」は、本当に報道なのだろうか。その自問自答ができないレベルの思考能力では、報道従事者としては質的に失格。


人間は感性のある生き物だから、情報の取捨選択の際に主観が混じる。これは仕方がない。プログラムに任せるとしても、そのプログラムの組み手の考え方で左右される部分は多々ある。とはいえ、それを大義名分として、自分の、あるいは所属組織の思惑を事実報道と織り交ぜて印象操作の材料として使ってはいけない。先日触れた、映像などで印象操作をする手口もよい例だけどね。

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このページは、不破雷蔵が2016年10月 7日 07:51に書いた記事です。

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