先日、電通の社員の過労死でソーシャルメディアのツイートが日記的な証拠物件として採用されたとの話を見聞きし、某議員のツイートを時系列でさかのぼり、数々の数字的矛盾を見つけてくる人がいるのを見た時の当職の心境(°ω°) pic.twitter.com/EJvAEjn89x
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年10月8日
日常的に利用されるソーシャルメディアの記述が、その人の行動様式を客観的に推し量る物的証拠となりうる。ある意味、画期的な話ではないかな、と。「にゃーん」とか胸部のツイートばかりしていると、後で色々とアレなことになるかも...というより、そんな事態にならないのが一番ですけれども。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年10月8日
電通社員が過労の上亡くなった件で、スピーディーに過労死認定がされた際に、該当者のソーシャルメディア、具体的にはツイッターでのつぶやきの内容やタイムスタンプが、状況を認識する容易な材料として確認されたらしいとの話。あくまでも状況証拠で、労基側が「ツイッターの書き込みを参考にしました」との公開文書を開示しているわけではないのだけど、容易に連動性は把握できる(【24歳東大卒女性社員が過労死 電通勤務「1日2時間しか寝れない」 クリスマスに投身自殺 労基署が認定】)。
今件で当方が注目した要件の一つは、ツイッターのツイートが、その人の行動様式を裏付ける基になったという話。この類の話では、個人が常日頃、日常的につけている日記などが、証拠として採用されることはよくある。いつもつけている日記ならば、その確証性は高いと判断されているわけだ。今件はその日記に近しい信ぴょう性、証拠能力を、ソーシャルメディアの書き込みに対して認められたことになる(繰り返しになるけど労基側が明言したわけではなく、裁判でもないので、日記と同等ではない)。
ソーシャルメディアの利用スタイルを思い返してみれば、機能的には日記と同じ。それが公開であるか非公開であるかの違い。ブログは半ば公開日記のようなものだし、Facebookやツイッターは公開日記雑談みたいなものでもある。しかもFacebookやブログと異なり、ツイッターは削除こそできるものの、ツイートした内容の編集は不可能であることから、証拠能力は一段と高くなる。
ある意味、今件はツイッターに関する価値観を再認識させる事案にもなったのではないか、そんな気がする。無論、事案そのものは極めて不幸な話には違いないのだけれど。
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