①インターネットの普及率が個人ベースで5割を超えたのは2002年頃ですが、これは多分にパソコンによるもので、プライベートでの利用はもう少し下のはず。しかも利用時間は随分と限られていました(従量制ですから)。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年10月8日
従来型メディアに携わる人たちの品質、本質の劣化......というよりは元々の質のほどの露呈が相次ぐ昨今。そのメディアが高貴なものとしてもてはやされていたのは、かつては情報を広域に周知しうるツールがそれらに限定されていたのが大きな原因であるとは、以前言及した。それが今ではインターネット、そしてスマートフォンの普及浸透で大きな環境変化が生じている。相対的な優位性が損なわれ、仮面がはがされ、本質が見えてきただけ。それが実情かもしれないということも。
ではその仮面がはがされる前は、個人における情報の周知はどのような状況だったのだろうか。昔を思い返したり、資料をあさってみたりして、ちょいと覚書にしたためてみた。この辺りは本格的にやるのなら、メディア文化論的に切り込むべきなんだろうけど、恐らくその類のはすでに論文化されているはず。
②携帯電話の人口普及率が5割を超えたのはやはり同じ頃。ただしこの当時はいわゆるフィーチャーフォンで、文字のやり取りが精々。画像のやり取りをしたらパケ死といわれる通信料での鼻血が出る事態に。また、スピードもアレでしたし。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年10月8日
③実質的に個人同士の情報が飛躍的に進歩発展したのは、スマートフォンの普及に伴うもの、特に震災以降だと認識しても良いでしょう。震災直前の調査ではスマホの使用率は1割程度との調査結果も確認できます。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年10月8日
④特にスマホ経由でのネットが普及し、ソーシャルメディアで情報のやり取りが容易になれば、通信がつながる場所からならどこからでも、そしてどこへでも情報の発信が可能になり、受信もできます。遠くにいるおばあちゃんと気軽に、電話代を気にせずにやり取りも可能です。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年10月8日
⑤そこで。それ以前の時代の話を思い返す、資料を探してみると。「個人の情報発信」の能力の小ささと、マスメディアの絶対感が改めて認識できるのです。個人の情報発信手段は何があったか。口コミ、電話、ハガキ、せいぜいその程度。あるいは駅で詩集を売るとか。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年10月8日
⑥または何らかのイベントに参加して発言をしたり周知を期待するとか。同人誌即売会も、ある意味、情報の多数への公知との観点では、いまよりはるかに価値のある存在だったに違いなく。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年10月8日
⑦拡散力は極めて限定され、それこそ周囲数キロぐらい。しかもそれですら限定されます。個人で不特定多数に情報を伝えようとしたら、どうすればよいのか。新聞や雑誌、テレビに投稿して掲載される幸運に期待するぐらいしかないでしょう。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年10月8日
⑧自らがテレビに登場したり、雑誌に記事が載るケースはごく稀で、きわめて一部の人に限られ、だからこそ大変な価値があったわけです。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年10月8日
⑨そのような時代であればこそ、不特定多数へ情報を周知できる存在の、テレビやラジオ、雑誌、新聞は多大な権力を有していたのも同等だったわけです。でも今は、その特権が失われてしまっている。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年10月8日
⑩同時に不特定多数への情報周知が誰にでもできるようになったこと、さらに蓄積と検索による掘り返しが容易になったことで、情報の質が大いに変化しています。にも関わらず4マスは「昔の権威のまま」「情報の性質の認識が昔のまま」振る舞い続けているので、
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年10月8日
⑪元々の「品質」が容易に暴露されるようになり、失態を次々と繰り替えすようになっているのでしょう。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年10月8日
⑫......とまぁ、インターネット、特にソーシャルメディアの普及前における、個人の情報の拡散能力ってどれぐらいあったのかな、とふと思い、色々と覚書もかねて。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年10月8日
大体ツイートでまとめてあるけれど、インターネット上に書き込みをすることで自分の情報を発信する手立てを個人が持てるようになったのは今世紀に入ってから。例の9.11.の際にブログが大いに注目を集めたので、その前後ぐらいかな(タグを使わなくてもウェブ上にホームページみたいな感じで自分の文章を披露できるってことで大いにもてはやされたとの話)。その後、従来型携帯電話が普及浸透して、より気軽に、機動力の高い文字ベースでの情報発信ができるようになったけど、横の緩やかなつながりは掲示板がメインで、どこかしらアングラという感じは否めなかった。
やはり情報の広域な不特定多数への発散を大いに押し広めたのは、横のつながりを強力にサポートする機能を有するソーシャルメディアの普及浸透と、それと相互的に普及を後押しすることになったスマートフォンの展開によるところが大きいのだろう。
逆に、インターネットがまだ一般に広まっておらず、情報をばーっと広げる手立てとしてもさほど周知されていなかったころ、さらにはそれ以前において、個人が情報を多人数に知らしめる方法論としては何があったかというと、極めて限定されていた、しかも能力的にも限られていたことが分かる。どれぐらいかというと上に示した通りだし、今でも例えばネットを一切使わずに情報を周知させてみる方法を考えればよい。
それだけ情報の扱い方に関する環境は大きく変わってしまった。さらにその情報が蓄積され、検索で容易に過去のものも精査できるようになり、情報そのものの質も大きな変化を遂げている。
報道界隈の中の人による不祥事、質の劣化の露呈が相次ぐのも結局、この情報の取り扱われ方の変化に伴う、社会的相対価値の変質と、情報そのものの性質の変化に関して、認識が絶望的なまでに足りないからなのだろうなあというのが実感。
例えが多分に乱暴だけど、村に一軒しかなく、色々と暴利をむさぼっていた総合雑貨屋が、近所にスーパーやデパートが出来、ネットショッピングも使えるようになり、隣町へも容易に買い物に行けるようになったあとでも、昔と同じような対応をお客に対して行うようなものなのだな。
もちろんそのような雑貨屋にも質の良いもの、時代や環境の変遷に対応していく店もある。今の報道に、どれだけそのような対応ができる人がいるだろうか。
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