自ら命を絶つ衝動から逃れる、踏みとどまる歯止めとしての連載漫画や趣味、という話

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直接引用はしないけれど、先日の電通の過労死に絡んで、自ら命を絶つ衝動に駆られるのは、蓄積された未遂的行動の末以外に、内部的な蓄積やベクトル的には異なる力が働いていて、それが何らかのきっかけで(個人的にはまさに「魔が差した」という感じで表現できると思う)体現化する、それが最適解のように誤認してしまうという事例もあるとの話を目にし、ああなるほどと納得してしまった。

他方、その「魔が差す」をとどまらせる歯止めとなるものも、人によりけりではあるのだけど、第三者から見れば他愛もないものであることも多いのだろうなあ、という指摘もあった。これもまた、十分に納得のいく話。

あの連載の結末を知りたい、今後どうなっていくのかとても気になる。日常生活の中の願望としては大したものではないのかもしれないけれど、それが自分にとっての最後のフックとなっているのかもしれない。

太宰治の作品の一つ「葉」の冒頭に、こんな語りがある(【青空文庫「葉」より】)。

死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。

本当に他愛もない話ではあるのだけど、だからこそ、支えになっているのかもしれない。


支えといえばこんな話もある。これもまたよく分かる。自分にとっての趣味は自分自身に没頭できる、自分が好きだと思える時間を過ごせるものであり、俗世との隔離された時空の確保に他ならない。禅を組んでいる時間と似たようなもの。それを成しえることができないような多忙さ、あるいは精神的・時間的・金銭的な切迫感を覚えたら、その仕事においては自分は無理をしているとのフラグになる。

「社会人にとっての趣味は、自分を見失っていないかを確認する物差し」。仰々しいと思うかもしれないけど、金言であることにも違いない。

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このページは、不破雷蔵が2016年10月10日 07:51に書いた記事です。

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