新聞界隈の、特に記者の方は、ツイッターを始めるとつい本性やら本質を暴露してしまうので、素直に食事の写真とペットの写真だけ挙げていればよいのにと思うのであります。あと時々失敗した自作料理の写真。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年10月10日
すべてのツイートをくまなく精査しているわけではないので、どれほどの確率なのかは検証していないのだけれど、テレビや新聞に携わる報道関係者、特に記者がツイッターやFacebookなどのソーシャルメディアを、実名かつ肩書付で利用した場合、その少なからずにおいて問題発言を成し、色々と不祥事案件をやらかしてしまう。
この件に関しては「都合の良い時だけ肩書を使い、都合が悪くなったら一個人云々というのは無理がある。政治家や経済関係者に対し『それはムリ、同一人物として認識する』と報道界隈がやっているのだから、自分達だけ特権で切り離しってのは不可能」「もし色々とやりたいことを肩書などの歯止めなしにしたいのなら、匿名・別名で、肩書を示さずに、市井の一個人としてやればよい」との話は、何度かしている。
それでも肩書を使いたい、媒体に携わっている、名前も載せている一員としてソーシャルメディア、特に不特定多数に情報が広まりやすいツイッターを使いたいのなら、素直に食事やペットや風景画、そしてたまにお茶目に自分の料理の失敗作などを掲載していれば良い。Facebook的な使い方。それが一番無難でありリスクも低い。
認証欲求、ひらたくいえば目立ちたい、他人に認められたいとの欲求は誰にでもあるのだけど。それを組織の一員であることを明示した上で行えば、それが紙媒体であろうとソーシャルメディアであろうと、組織とのリンクがなされてしまうのは当たり前の話。にもかかわらず、報道関係者がソーシャルメディアで相次ぐ失言、妄言、やらかしをしてしまう、しかもそのミスに気が付いた気配がさほどないのはなぜだろう。
新メディアの登場に伴う新聞やテレビの相対的評価の低下、ソーシャルメディアをはじめとしたネット上界隈における従来型メディアの評価の低さ(≒実態の暴露)、個人や有志組織による情報のやり取りの中での存在の希薄感を覚え、認証欲求が高ぶる。そこで普段は表に出さない、出したくても就業中は対象メディアには書けないようなことを書いてしまう。俺の魂の叫びを聴けえぇぇぇといった、ロックな感じ。それをソーシャルメディアに書いてしまうので、当然周囲からは「お前は何を言ってるんだ」ということになる。
元々の本質が暴露された、というよりは、ソーシャルメディアによって本質がより濃縮化、具体化された上で体現化してしまう、と考えた方がよいのかな。アイスケースに寝そべったり鼻に唐辛子のビンをツッコんだ写真を掲載して炎上する事案と、方向性にさほど違いはないと考えると、理解はたやすかったりする。
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