「私が想ったのだからそうなんだよ。私の中では、な」
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年10月23日
であれば問題は無いし、それは許容される権利なのです。
「私が想ったのだからそうなんだよ。お前の中でも、そして社会全体でも、な」
と何の数理的裏付けも無く強要するから、悪質な新興宗教と同じ問題になるのです。
作者当人からは黙認の形で(立場上公認はできないので暗黙の了解的な形で)許諾されている、ネット界隈では良く知られるイメージカット、『少女ファイト』で式島滋が主人公・大石練に告げた台詞「お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではな」。カットとしては本来の意味合いとは別の使われかたをされている事に、色々と複雑な思いがあるとの言及もしていたけれど、それはさておくとして。
「お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではな」の立ち位置を自分自身に据えて、今件記事タイトルのように「私が想ったのだからそうなんだよ。私の中では、な」とするのは、一向にかまわない、というか当然の権利。他人がどう思うのか、世界ではどのような様態なのかは別として、自分がどう思おうが他人は指図できない。想像の世界は誰にも邪魔されない、自分だけの世界。
無論それを何らかの形で体現化し、他人や社会に何らかの影響を及ぼすとなれば、「私の中」からはみ出るために問題となる。「自分がお腹を空かせたときには、いかなる食べ物でも自由に無料で食べられる」と自分で考えるのはかまわないけど、それを実行に移して無銭飲食をすれば当然お縄になる。
さらに「私が想ったのだからそうなんだよ。お前の中でも、そして社会全体でも、な」とするのは、自分の想いを何の裏付けも無く他人へ強要することになる。自分が汚いと感じたから、数理的には何の説明もできないけれど、お前は汚いと大声で笑いながら指差し、侮蔑する。さらには存在そのものまで否定する。その行為に正当性はあるのだろうか。
感性は人それぞれであり、自分がどのような感情、判断をいだくかに制限はないけれど、それを正しい論拠、事実も無く(無論それには「自分が想ったから」といった感情論は適応しない)他人に押し付けるのは、自分の食事の上での好き嫌いを不特定多数の第三者にもそのまま押し付けるようなもので、傲慢でしかないと思うのだな。
......昨今、こんな事例が多々あるので、汎用的な話として。
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