社会を維持するための「弱きものを助ける」との道義心と、それを悪用する「強者な弱者」と

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インターネット界隈では多種多様な人が居るので、善意な人ばかりではないことを前提として行動した方が無難。いや、インターネットはあくまでもツールでしかなく、社会全体として悪意を持つ人は必ず存在し、インターネットによって接触しやすいようになっただけと認識した方が正しいのかな。ともあれ、上記の指摘のように、配慮を求めても、99.9%の人はそれに従うけれど、残り0.1%がその期待に応えないどころかつついてくる可能性は多分にある。そしてそれが一度つつかれると、アリの穴から堤防が崩れるがごとく、スタンピード現象的なものが発生し、エライことになる場合が多々ある次第。

なので、それをネタにする、売り文句にするのならともかく、あるいは突っ込まれるのが好きという性癖の持ち主でない限り、プライベートな部分、弱点は見せないのが安全。


他方、この「弱点があるので配慮してね」という考え方も色々と考えさせられる。弱点に対して配慮するってのは団体構造である人間社会の維持には欠かせない心構えであり、倫理であり、知恵ではあるのだけど。これを逆手に取る、つまり本能的なものを悪用する界隈が少なからず見受けられる。つまり「弱者」を盾に振り回す強者が多々見受けられるようになったというもの。中身が本当の弱者であることもあれば、主観的な観点での「弱者」でしか無いこともある。そして叩いている相手もまた弱者だったりすることも少なくない。

以前も触れたかな。「弱者」という免罪符は社会維持には欠かせない存在。ただそのオールマイティさにほれ込んで、悪用する事例が多々出てくると、そのカードを振りかざされて社会維持のために、倫理観に従い、叩かれるがままにされている人たちに、「そのカードって本当に効果があるのだろうか、従うべきなのだろうか」との疑念を起こさせてしまう。


強者のふるまいをした弱者は、権威を振り回す強者と何ら変わるところは無い。手を求め、手を差し伸べる状況こそがあるべき姿なのであって、棍棒で相手を叩きながら「さっさと手を差し伸べろ」と強要するのは何か違う。ましてやその棍棒で叩いている側が、「弱者」の仮面をかぶった普通の人であるのなら。

このような悪用が一般化してしまい、それでも社会の維持のために「弱者だから従わねば」的な状況が継続すると、社会全体が不信感を持つようになるし、本当の弱者が一番迷惑をこうむり、救われなくなってしまう。悪用、濫用へは断固たる措置が必要なのではないかな。線引きは難しいのだろうけど、だからといって限りなく黒に近い灰色も白と認識するほど、人々はリソースをもてあましているわけではなければ、寛容でもないのだから。

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このページは、不破雷蔵が2016年11月 2日 07:58に書いた記事です。

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