ガガ氏のトランプ氏に関わる「誤訳」の件。ネタ話としてよく知られている、マドンナの「ライク・ア・ヴァージン」のタイトルの日本語訳を思い出します。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年11月11日
日本の報道界隈の翻訳がぐだぐだで色々と問題が出てきているのは、単に報道側が予算をケチって、スキルの相応な専門家に依頼していないだけではないかなと思う今日この頃。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年11月11日
@Fuwarin 自社で採用した帰国子女枠の社員に仕事投げてるという可能性も(ry
— 青木文鷹 (@FumiHawk) 2016年11月11日
具体的な例示は避けておくけれど、先の米大統領選周りで起きている色々な事案に関して、明らかに実際の行動、意図とは別の解釈と思われる翻訳的な記事が掲載され、各方面からツッコミが入っている。その解釈の誤訳具合が、今ではネット上のスラングというかネタ話的に用いられる、マドンナの「ライク・ア・ヴァージン」のタイトルの日本語訳の誤解釈を想起させる。「~のように」ではなく「~が好き」と無理やり日本語読みしてしまう、そんな感じ。
当方も翻訳スキルに関しては人のことを言えるレベルではないのだけど、それにしてもこれはちょっとひどいかなあという感はある。そして一連の米大統領選に関わる各種報道を思い返すに、一次ソースとして取得してきたであろう米メディアの偏りもさることながら、翻訳の段階でさらに厚めのフィルタがかかっている、奇妙な混ぜ物が仕込まれているのではないかという疑いが。
単に翻訳スキルに関して今一つの外注に出しているのか、内部でやってしまっているのかもしれないけど。
翻訳部分に投入するリソースをケチった結果、ぐだぐだな翻訳記事が出来上がり、正しい意図が伝えられていないのだとしたら。節約とか倹約というのは、不必要、無駄な部分を削るのであり、必要不可欠な部分のリソースを削ることを意味するわけではないだがな、と考えてしまう。リストラ(リストラクチャリング。最適化のための再構築)を単なる出費削減、人材解雇と同様に見ている状況ではしかたないのかもしれないけど。
他方、誤訳に見せかけた印象操作なら、ケタ違いにタチが悪い話ではある。先日も日経新聞で、買収したFT社の記事の翻訳記事を掲載する際に、原典タイトルにおける人物の羅列を入れ替え、原典に目を通している人からツッコミが入るという一幕があった。
日経新聞社に問い合わせた処「編集権の範囲内」だということです。記事内に安倍総理も出てきますが、タイトルに追記すればいいだけなのに、何で習近平を消して安倍総理と差し替えたんでしょうか?きっと日経新聞にとって習近平は民主的な政治家に見えてるんでしょう @officematsunaga pic.twitter.com/ZkcY0tuEbv
— JJ (@JOYDARKSOUL) 2016年11月11日
で、その疑問への回答がこれ。編集権の範囲内だから別に問題ないよねー、的な。いいのか、それ。まるで「より深く心に刻むために実名を出したい、どうしても」という報道のワガママ姿勢と同じような方向性。リアリティと事実の差し替えは別物だと思うのだが。
これをやってしまうと、日経掲載のFT記事は「翻訳」ではなく「原典付の独自記事」になってしまうのだよね。最近ではハフィントンジャパンも似たようなことやってるので、「これが新聞では当たり前なのだ」との認識なのかもしれないけど。
「編集権の範囲内で記事の主旨を損ねることのない見直しであるとの認識」
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年11月11日
『つまり日本経済新聞は習氏よりも安部氏の方が危うい強権指導者であると認識している。それを公知しているとの認識でよろしいのですね』
「ぐぬぬ」
と突っ込まれればグゥのネも出なくなってしまうのだよね。
編集権を行使して自前の認識で変えたなどとの発言は、その編集サイドの政治的策動や意図を体現した変更であるとの公知と等しいわけだから、本来は絶対に口にしてはいけない。それを平気で文面化している。軽率な言い訳がもっと大きなぼろを出す結果に陥る、良い例でもある。
ぱっと見聞きでは気が付かないかもしれないけど。だからこそ、記録と、時間をかけての、不特定多数による(=多様な視点による)再検証が必要なのだよね。
...こんな話が出てくると、日経の他のFT記事も似たような感じで、色々と好き勝手に改ざんとかしてるのでは? との疑念が湧いてくる。ルール化されているのだから、他も成されていると「認識」されても仕方が無いと思うのだな。
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