「言われたことしかできない」と「自分でどのように判断しても怒られる恐怖」と

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言われたことしかできない、例えばきょっちょむ頓智話のように「柿の木を見ていてくれ」といわれたら本当に柿の木をじっと見ていた(と報告した)的な行動選択しかできないとして、最近の若年層を嘆く声がある。他方、今件のような指摘も少なくない。どのような選択を自分の判断でしても、理不尽な怒られ方をされる可能性が多分にある。

怒る側は往々にして、自分の思った通りの判断をしてくれなかったので怒っている。しかし判断をした側に対し、正しい判断ができるような教育指導啓蒙を、これまでしっかりとしてきただろうか。また、仮に教育をしてきたとしても、その習得中であり、今回はその判断を誤っただけでは無かったのではないだろうか。そして何よりも、怒る側も怒られる側も超能力者ではないのだから、思っていたことがそのまま伝わるはずもなく、怒る側の目の前にいるのは、自分のコピーでもない。自分と同じ事、思っていたことが出来なくて、それを怒るのは理不尽ではないのか。

怠慢の上での判断ならまだしも、自分の能力と経験の上で、与えられた条件の中で判断を下し、それを頭ごなしに怒られる。どのような判断をしても、似たように叱咤されるかもしれない。それならばリスク回避、安全策として、指示されたことのみをやれば良いと考え、実行するのは、実は理にかなっている。そのような選択をしたらしたで「いわれたことしかできない」とまた怒られるのでは、モチベーションが上がるはずもない。


指摘の通り、経験も教育もあれば、それなりに頭の中に言われたことに加えて何をすべきかの選択肢は浮かんでくる。しかしそれをやって上手くいかなければ当然叱られるし、上手くいっても叱られる可能性もある(余計なことをするな、など)。

それが繰り返されれば、自分が考えることへの優先順位が下がってしまうのは当然の話。安全策は言われたことだけをやる、他の事はしない、自分で考えるのは怖い、そう判断してしまう。

なお、こちらのツイートにはやや地獄めいた反論のリプライがついている。けど、これは多分に生存者バイアスがかかっている気がする。

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このページは、不破雷蔵が2016年11月23日 07:41に書いた記事です。

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