インターネットの普及浸透による情報の容易な拡散が可能となったことで、新聞やテレビによる実名・明らかな身元報道は、間接的な「私刑(リンチ)」の指図と同義となります。「受け手の記憶に刻む」さらには「報道の自由」の前には、個人の人権、生命そのものですら、ないがしろにされるのでしょうか。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2016年12月24日
先日の某所の大火でも火元の実住所・素性が実質的に報じられてしまった時に感じたお話。報道界隈は繰り返し、視聴者の心に刻むため、事件の印象を深く認識させるため、より詳しく知ってもらうため、被害者や加害者、それらの関係者の実名や身元の詳細を殊更に暴露し、書きたて、広めてしまう。情報の受け手が送り手からの一方方向による受信のみで、ああそういうことなのねと確認してオシマイな時代ならば、その意図はある程度正当性があり、弊害も比較的少なかった。
けど今は状況が大きく違っている。情報の受け手側も他の情報の取得精査を成して、さらには発信側になることができる。受け取った情報を元に、さらなる詳細な情報を見つけ出して広げ、(送信者が意図せずに)シグナルとして送り出すことができてしまう。
そのような現状ではマスメディアによる、事件性のある事柄に関わる個人情報、プライバシーに直結する情報の配信は「私刑(リンチ)」のトリガーとなり、指図と同義となりうる。そしてその実害も多分に生じている。
メディアの個人、特定団体の明記による、不特定多数が直接、間接的加害者となるリンチは、ネット普及前にも多々行われている。例えば不祥事を起こした「と伝えられた」企業へのいたずら電話、個人への誹謗中傷。ただしそれは限られた範囲での情報取得者に限られるし、個人の場合は特定認識できる近所周辺の人のみが可能だった。精々電話でクレームを入れるぐらい。それも電話料金を考えれば、ハードルはかなり高い。
その時ですら実名・身元詳細の報道によるメリットとデメリットの天秤のかたむき度合いはあやしいものがあったけど、今ではまったく状況が異なる。報道サイドが考えるメリットよりも、関係当事者が受けるデメリットの方がはるかに大きい。あるいは実名・身元詳細の報道を主張する界隈は、それらの犠牲リスクは「自分たちの大義のためには必要な犠牲である」と堂々と胸を張って言えるのだろうか。
やはり根底にあるのは「私達記者は正義。がんばる」と同じ、身勝手な自己正当化なんだろうな。
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