「あの媒体が反論しているのなら、それは事実だ」「あの界隈が反発しているのなら、対象事案はおおむね正しい」といった、リトマス試験紙となる対象が増えてきたことで、その対象を覚えておくことにより、世の中のあれこれをよりスマートに確認することができるライフハック。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2017年1月3日
インターネットの普及浸透により、ツール・媒体としてのメディアの境目があいまいになり、発信元の信ぴょう性がより重要視されるようになった。昔は「新聞」は紙媒体としての新聞以外に新聞出版社業界や関連団体、所属する人たちまでを多分に意味し、合わせて信頼のおけるもの、権威あるものという感じがしたけれど、そして今でもその意味合いで使われるケースが多いけど。インターネットを用いて同じようなことが誰でもそれなりにできるようになり、新聞社自身もネットを使うようになって、紙媒体の新聞ならばどのようなものでも信頼できるってことは無くなりつつある。
紙だから偉い、権威ある、信頼できるという、物理媒体信仰はいまだに根強いことは否定しないし、情報の保全性で考えるとそれも仕方がないかなという気はするけど。情報の確からしさは配信されるツールによるものではなく、配信元(作り出す集団)による傾向が強くなってきたし、それが本来あるべき姿なんだろうなとは思う。
新聞の情報が丸ごと信頼できるというのなら、その新聞を作っている企業が配信しているネット情報も信頼できるから、ネット情報も信頼できるのかというと、そうじゃないよね。
結局のところ、どのような集団が、あるいは個人が語っている内容なのか、その出どころを確かめることが、その情報が信頼できるものなのか、読むだけの価値があるのか、参考にしても良いのかを判断する、一つのフラグになっている。昔からそうだったのだろうけど、その傾向がさらに強さを増してきたと感じる。
見方を変えれば、ツイートしている内容の通り、「あの媒体がムキになって反論しているのなら、それは事実だ」「あの界隈が反発し、世間に煽っている雰囲気を覚えたのなら、対象事案はおおむね正しい」というもの。ある意味、その媒体や界隈の反応が、世の中を正しく精査するためのリトマス試験紙となっていたりする。
以前紹介した【新聞で見かける「波紋が広がりそうだ」「議論を呼びそうだ」は記者や新聞自身の想いを込めたメッセージ】のような、新聞をはじめとした対象メディアの内部的思考・願望を、あたかも世間一般全体の意見であるかのように読ませ、読者に同意するよう促す表現方法と併せて認識して精査に用いると、テレビや新聞の見方がぐんと面白くなる。
トンチ話などでよくある、「6割の確率で本当の事を言う人」「9割5分の確率でウソを言う人」どちらに質問をすべきかといったトンチ問題と同じ。ちなみにこの場合は、後者の人に二択の問題を出して、答えた方の反対側を選べば、95%の確率で正しい選択肢を知ることができる次第ではあるのだな。
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