先ほどFacebookを巡回し「ツイッターは(罵声用語)だ」なるものを繰り返している書き込みを見てふと気が付いたこと。ツイッターの仕様的な問題点はともかく、それ以外の点でそのような話が出てくるのは、「インターネットは~」と同義ではないかなと。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2017年1月19日
米大統領選前後から特に大きな声で、ツイッターはコンテンツ、中で語られていることがダメダメだ、下品でどうしようもない的な話が語られる機会が増えており、先日もFacebookでその類の意見を目にして、ふときがついたこと。仕様的な問題ならともかく、各ツイートの内容を総じてそのような意見が出てくるのは、結局「インターネットは内容がダメダメだ」と同義で、意味が無い話ではないかな、と。
FacebookにせよLINEにせよInstagramにせよ、全体としては巨大に違いない。ただ利用者間のつながりは比較的狭いもの(村社会的)になるか、FBページのような近しい意図を持つ集団(ファンクラブ的)になる傾向が強い。元々そういう使われ方を前提としているからね。ところがツイッターはハードルが低いため、そのような囲い込みすら緩いものになる。
フォローしている人である程度調整はできるけど、それでもそのフォロー対象者のリツイートで「村の外」の意図は容易になだれ込んでくる。「ツイッターは(罵声用語)だ」なるものは、ブログ全体やサイト全体を指して「ブログはダメだ」「ウェブサイトはダメだ」と語るのと変わらない気がするんだな。藤子先生の某漫画でもあった、超能力者になった主人公が、ありとあらゆる人の頭の中の想いが聞こえてきて、悶絶してしまうような、そんな感じ。
メディア別の評価を調査する際に、新聞やテレビ、ラジオ、雑誌と共に、インターネットで全部くくって信ぴょう性の度合いを確認することがあるけど、それって不条理な感がある。それに近い気がするんだよね。内容の良し悪しは結局システム自身ではなく、インターネット全体の情報の中の一部分。それを割り切る、取捨選択するってことができない自分の力量の問題では無いかな。
直接罵声の類が投げられても、対処する方法はあるのだし、不特定多数に向けて自分の誹謗中傷がなされていたのなら、それもシステムの上で対応する手立てはあるし、さらに「ブログの集合体」との認識の上で、ブログやサイトにその類の話が書かれたのと同じような手を打てば良いまででしかないわけだから。
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