世界支配層ゴホゴホ...はともかく。あの類のインタビュー記事で以前から疑問に思っているのは、「なぜインタビューに答えた人の語りがすべて事実で、それが対象事案に関わる話のすべてであると断言できるのか」ですね。誰も保証していないし、精査も滅多になされていない。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2017年1月30日
これは以前から何度か頭の中にもやもや感という形で沸き上がっていたものであり、「現場に足を運んだ者の語りがすべて正しいものでは無い。その人の感情的フィルタや表現の違い、意図的偏向がありうる」や、先日の「記憶のすり替え、上書きは誰にでも容易に起きうるので、語り部の話をうのみにするのは危険」という話に連なるものでもある。
何か事件が生じてその当事者が反省の意を含めてインタビューに答えたり、内部告発者の言及として関係者が実情を語るという報道のスタイルは良く見かける。そしてそれらの語りの内容はすべて正しく、事実が語られているとの前提で話が進んでしまう。
でも、それはおかしくないかな。
元々問題のある行動をしていた人物が「反省の意を込めて」「事情説明のために」という形でインタビューに答えた場合、その時点で完全に反省し、事実をすべて話すと自称していたしても、それが正しいとは誰が保証するのだろう。どうして事実だと断言できるのだろう。突然該当する人が聖なる力で心を洗浄され、事実を語ることしかできなくなったのたのならともかく。さらに本人がそのつもりでも、語っている内容は事実誤認や思い違いである可能性も否定はできない。その人が突然絶対真理で万能の存在といった感じに設定され、その上でインタビューに答えたことになってしまっている。おかしいよね?
例えば以前のねとらぼにおける某まとめサイトの「元」管理人のインタビューは、結局のところ、責任回避と火消しのための自己弁護的な方便であることが明らかになった。当方が当時指摘していた通り、火消しとしてメディアを悪用したわけだ。自分達は弱者、むしろ被害者、だから何か問題があっても許してね、的な。だからこそ、半ば以上だまされたねとらぼ側も執拗に追及しているのだろう。TBS不二家捏造報道問題も好例。ここまで端的でなくとも、インタビューなるものが例え関係者のものであっても正しい内容が語られていると見てしまうのは非常に危険。
さらに、語られている内容が事実であったとして、それが事実の全てとは限らない。あえて一部のみ事実を出し、残りは語らず、延焼を食い止めている可能性もある。被害担当艦、という表現が適切だろうか。倉庫1箱分の盗難をしておいて、紙袋一袋分だけ盗ってしまいました、ごめんなさい......という可能性もあるわけだ。
現場の声、当事者のインタビューを否定するわけではないけれど、昨今それに傾注しすぎて、無制限の信用を置き、それのみを絶対視する傾向が強くなっている。インタビュー記事は価値があるように思われているから、そこにウェイトを置きたくなるのも分かるけど。だからこそ、悪用もされやすいし、公知の際には慎重にすべきだと思うのだけどね。
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