また、報道機関は「社会に一石を投じた」という言葉も使いたがるが、その「一石」を一方的にぶつけられた人(論説の批判対象者、あるいは取材対象者)から反論される機会が今までなかったので胡坐をかいていたんだよ。SNSの登場で状況が変わり「ものを言いにくい社会」などと甘ったれているだけだ。 https://t.co/TeNw3Y5uEF
— 井上リサ☆玄海紀行 (@JPN_LISA) 2017年2月9日
検索すれば山ほど出てくるので抽出するのは略しておくけれど、事件報道などで報道側が気まずい結果となったり、誤報の類が生じた際に良く言及される言い訳的な説明の一つに「社会に一石を投じた」がある。これは池などに石を投げこむことで、その石が水面に波紋を作り周囲に広がっていく様子から転じて、該当行為が社会に大きな気づきを与えた、啓蒙的な役割を果たした、だから石を投げて水面に落としたことは決して無意味さらには有害だったわけでは無いとの意味を有する。
しかし指摘の通り、この表現において投じられた一石が直撃した、ぶつけられた側の実情は無視されている。そしてこれまでは報道などは一方的に情報を配し、返されることは無いので、石を投げるだけの状態。イソップ寓話のように投げた池から頭にこぶを付けた女神が怒った表情で現れ「あなたが池に投げたのはこの金の塊ですか、それとも銀の塊ですか」などとするケースは無かった。だからこそ石を投げ放題だった。
でも今は違うのだよね。個人の情報発信手段が飛躍的な跳躍を遂げ、石を投げられた側は投げ返せることが可能になった。今までのように傍若無人に投げまくることは難しくなっている。
さらにその特権を(無意識に)悪用する形で、特定方面・組織のみ、ましてや特定個人に向けて投げつけるのも日常化していた。それは「社会に一石を投じる」という社会的意義をカモフラージュとした、意図的な攻撃でしかない。
環境が変わっているのにも関わらず、相変わらず同じような思惑で「社会に一石を投じ」続ければ、当然相応の報いが生じることになる。その実情をこれまで石をやりたい放題で投げていた人たちは理解しているのだろうか。
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