う~ん、「文字が読める」「文章で書かれた内容が理解できる」「文脈が理解できる」は分けて考えたほうがいいんじゃないかな。
— KGN (@KGN_works) 2017年3月11日
古のケータイ小説のように細切れ文で書かないと判らない!という人でも、細切れにしとけば「書き手の意図する内容を把握出来る人」もいる。
一方で、長文の読み書きは日常的にやっていても、「文章に書かれた言葉の意味を捉える事は何とかなっているが、その文章が状況に合わせてどのような意味で解釈されうるか、そしてそれが社会的にどんな意味を持って用いられているか(嫌味や遠回しな表現を含む)」はまったく理解できない人もいる。
— KGN (@KGN_works) 2017年3月11日
「言葉は通じるのに話が通じないという......これは奇妙な恐ろしさだった」という某SF漫画の有名過ぎるワンシーンを想起すれば色々と理解できる部分もあるのだけど。自分が認識している言語で書かれた文章は読む事は不可能ではない。けれどその内容が理解できるか、さらにその内容を理解してその書き手の思惑や文章全体で表現しようとしていることが把握できるかはまた別の問題。
これ、翻訳作業などだとよくある話。自動翻訳機能の高性能化で「文字が読める」まではできるようになっても、そこに書かれている内容が理解できるとは限らない。自分の常識と合致しないことが表現されていて「これは何を意味するのか?」と首を傾げてしまう。江戸時代の人に「飛行機で東京まで行く」との文字を指し示しても「ひこーきでとーきょーまでいく」と読めるかもしれないけれど、それが何を意味するのかは理解できないはず。「ひこーきって何だ? とーきょーってどこのこと?」って感じ。「けものフレンズ」でもその辺りの話は何度か出てきたはず。
そして「文章で書かれた内容が理解できる」のステップをこなしてはじめて「文脈が理解できる」可能性が出てくる。さらに文章の流れとして、その奥底に何を意味しているのか、何を伝えようとしているのかを把握できるようになる。イギリス的なジョークが良い例になるのかな。いや、そこまで高度に皮肉れたレベルまで考えなくてもよいのだけど。
で、昨今ではスマホ経由で文字を読むのが日常化している人が増えている。つまみ食いとかザッピングとかいう形で表現したことは以前にも何度かあったけど。短文が力を持つ時代、とも書いたこともあるな。短い文章を次々と読める環境が整備され......というかそれがメインとなり、そのスタイルが当たり前となっている。たくさんの情報を取得できるから、どれもこれも目を通したいけど、じっくり読んでいるのでは時間が足りない。なのでつまみ食い。バイキング料理、的な。それこそ電車の中刷り広告ばかりを読んでいると表現しても良いぐらい。
それゆえに、文字は読めてもその内容をしっかりと理解できる前に次の情報が流れ込んでしまうので理解が中途半端になってしまうとか、さらには文脈の理解に至るまで目を通さないケースが増えてしまう。
ウェブ系の記事でタイトル部分がやたらとショッキングなものとか、情報としては間違っていても目立つものが増えたりするのも、それが原因であるし同時に後押しもしている。また某所で「注意事項や調査要綱を文中に書くと最後まで読まない人がそこで止めてしまうので、重要度の低い注意事項などは文末に書いた方が良い」と指摘され、納得すると同時に驚いたこともある。
スマホは確かに便利なんだけど、取得できる情報量が限定されるし、ぱっと見文化がさらに進んでしまう。それがトレンドならばその状況を理解するしかないのだけど、それでいいのかなというと、ちょいとばかり首を傾げてしまうのだな、これが。
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