みんな平等で参加するイベントも、人によっては耐え難い重圧でしかない

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例えば物書きや計算など勉学方面で必要不可欠な知識を習得させるといった話なら、平等に機会を与えてハードルを越えさせる必要がある。そのハードルが越えられないと、世の中で不便を覚えてしまいかねないからだ、というかそうならないようにするための勉学だからに他ならない(他にも色々と理由はあるけど)。

他方、指摘されているように持久走の類は「必要な、超えるべきハードル」なのだろうかと考えると首をかしげてしまう。相応の体力云々の話ならば通常の体育の授業で成しているわけだし、その上、10キロとか20キロといった持久走とかは必要があるのだろうか。

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このページは、不破雷蔵が2017年3月30日 07:29に書いた記事です。

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