活動家をジャーナリストと表現する時点でアウトです、例の復興相関連報道では。「豊洲市場売り払って奨学金」事案の件も好例ですが、活動家は他に如何なる肩書、所属を有しても、自らの活動目的を確信的利益とし、他は全て蔑ろにする行動性向を有しているのです。だからこそ「活動家」なのですね。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2017年4月20日
自らをアクティビストと自称してイメージ転換を図る動きもありますが。自らの領域以外で策動しようとする場合、手をつけられた領域は汚され、ないがしろにされ、踏み台に用いられ、権威を傷つけられ、信頼性を毀損される可能性は多々あります。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2017年4月20日
利用して自らの確信的利益を充足する。それこそが「活動家」の目的なのですから。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2017年4月20日
先日の「豊洲市場を売って奨学金」をドヤ顔で呈した自称社会貢献派な実態は活動家な方の話にしても、ジャーナリストを自称する活動家にしても、それらの活動家の挙動を見るに、ポジティブな評価をしたり活動家以外の肩書で持ち上げる時点でアウトだなという事案が多々見受けられるようになった。
活動家というのはその活動対象、目的が最優先事項であり確信的利益としており、その他の肩書、所属、挙動は押しなべて踏み台としてしか考えていない。それはこれらの事例で大いに理解はできるはず。すべて悪用して踏み台とし、その台が壊れようとかまわない、そして自らの確信的利益を充足する。それこそが「活動家」の目的であり、理念なのだな。
単発の記者会見ならまだしも定例の記者会見だと質問する側される側の信頼関係が大事なんじゃねえの?前回「怒らせて本音を引き出すテクニック」って記者を擁護してる人もいたがそれは1回しか使えないって事やな、意味あんのか?
— クロイヨシツネ (@YoshitsuneK) 2017年4月21日
自分が望む返答を得るまで同じ質問を繰り返すのであろう記者に対応している暇があるなら他の記者に時間使った方がいいに決まっとおる。
— クロイヨシツネ (@YoshitsuneK) 2017年4月21日
▲「自分が望む返答を得るまで同じ質問を繰り返すのであろう記者」
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2017年4月21日
〇「自分が望む返答を得るまで同じ質問を繰り返すのであろう記者の仮面をかぶった活動家」https://t.co/sfTUeZhIC7
◎「自分が望む返答を得るまで同じ質問に見せかけた要求を繰り返すのであろう記者の仮面をかぶった活動家」https://t.co/HfLdeRB1XJ
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2017年4月21日
例の記者まがいの活動家にしても、社会学者周りにしても、これまで社会全体からお情けをいただいていた、目をつぶってもらっていたのに、それを当たり前の特権として振る舞うようになったのが、実態の暴露という結果となったのかな、と。大金をつかんだ人がその人の本性をさらけ出すのと似ていますね。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2017年4月21日
社会学者が、反社の学者になってしまってはいけないのですけどね......。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2017年4月21日
......的な話をしていたら、例として挙げたうちの一つのジャーナリストを自称する活動家がまたやらかしたので、それも合わせて。結局は記者などでは無く、活動家でしかなく、さらに質疑応答での質問ではなく、単なる要求、直談判であるわけで。さらに今件に絡んで健康社会学者なる者が揶揄的な話の素材として使われていたので、それをさりげに突っ込む形も合わせ。
これまで社会全体からお情けをいただいていた、目をつぶってもらっていたのに、それを当たり前の特権として振る舞うようになったのが、実態の暴露として目立つようになってきたのかなと思うと、ちょっと納得できる部分もあったりする。そしてそれは、大金をつかんだ人が「人が変わったみたいだ」といわれるような行動を取るようになるのと似ているかな、と。要は人が変わったのではなく、元々そういう本性だったのが、タガが外れて露出するようになったという感じではある。
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