人の手によってつくられる情報には必ず主観、ぶれが生じる。問題はそれが許容できる範囲か、語られている軸とのぶれが許容範囲か否か

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公明正大であることが大前提であり社会的使命である報道(プレス)をはじめ、世の中にはさまざまな思惑や主張、主観に惑わされることのない情報が求められる。それらの意図に影響を受けた情報は、第三者が手に取る時に本来ある価値とは別の方向性が生じてしまい、真っ新な事実を受け取れない可能性が出てくる。

他方指摘されている通り、人が介在した情報である以上、どうしても方向性が加味される。未編集の生映像(いわゆるRAWデータ)であっても、その映像の取り手の思惑が絡んでくるから、アングルなどの見せ方で印象が変化する可能性は否定できない。そして真っ新な事実を知りたいのなら、その思惑を考慮した上で受け取り、見定める必要がある。

正直なところ、発信側の意図をまったく無くした情報の発信は不可能。株式市場の株価一覧にしても、どのような表示をするか、並びをどのように行うか、文字の大きさはなど、思惑が入らないとは言い切れない。

結局、どのような情報も完全なまったくの中立は望めない。問題は中立的なものとして見通す、思惑という名のノイズを取り払える、思惑による偏向誤差が許容できる範囲にあるか否かなのだよね。

米袋に米虫が1匹入っていたら「まぁ、よくあることだし」で済むけど、これがグロス単位で入っていたら「品質管理はどうなってるんだ」になる。液晶テレビの購入時にドット抜けが100個とかあったら品質を疑うよね。今の報道はそのような状態だからこそ、色々と問題視されているんじゃないかな。

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このページは、不破雷蔵が2017年4月24日 06:45に書いた記事です。

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