最近、義務を無視し権利のみ主張するのが人権への意識高い系の人たちの間で流行っているように見える。義務の対価として権利が与えられているのではない、と。そこからデマで相手の人権を傷つけても責任はないし、自分の権利は主張しても他人の権利は認めないというのがテンプレというのも。
— やん (@skd7) 2017年4月24日
「意識高い」では単に志を持つ者ともごちゃまぜになるので「意識チャラい」とか「自意識チャライ」といった感じで表現をしている方々の特徴の一つとして、指摘されている方面にあるような傾向がある。権利を主張し義務は無視する。食堂でお腹が減ったのでご飯を食わせろ、でも代金は支払わないと騒ぐ、的な。
「義務の対価として権利が与えられているのではない」との主張もあるようだけど、それこそ詭弁で、実のところは「権利の対価として義務が与えられている」、さらには「権利と義務は一体化している」のだよね。自由はあるけど責務を果たさなくてよいのなら、それは自由では無く自由奔放でしかない。
それはまるで「王権神授説」を主張する王族であるかのようですね。https://t.co/VvT5gfl5lO
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2017年4月24日
王権神授説 https://t.co/IuxVOajnHM 「王権は神から付与されたものであり、王は神に対してのみ責任を負い、また王権は人民はもとよりローマ教皇や神聖ローマ皇帝も含めた神以外の何人によっても拘束されることがなく、国王のなすことに対しては人民はなんら反抗できない」
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2017年4月24日
権利のみを主張し義務は果たさない。権利の行使を当たり前のように自称し、何物にもとらわれない、責務など無いかのように振る舞う......どこかで覚えがあると思って確認したら、まさに「王権神授説」を唱える王族そのものだったことに気が付いた。
ある意味究極の上から目線であり、その観点では「意識チャラい」「自意識高い」のアッパーグレードな表現としても良いかもしれない。「選民意識」にも近いかな、という気がする。
いずれにせよ「自分達は選ばれた存在だから何をやってもかまわない。そして何の義務も負わないし拘束もされない」というのは、非常に危険な発想でしかないのは言うまでもない。
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