上から目線と王権神授説

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「意識高い」では単に志を持つ者ともごちゃまぜになるので「意識チャラい」とか「自意識チャライ」といった感じで表現をしている方々の特徴の一つとして、指摘されている方面にあるような傾向がある。権利を主張し義務は無視する。食堂でお腹が減ったのでご飯を食わせろ、でも代金は支払わないと騒ぐ、的な。

「義務の対価として権利が与えられているのではない」との主張もあるようだけど、それこそ詭弁で、実のところは「権利の対価として義務が与えられている」、さらには「権利と義務は一体化している」のだよね。自由はあるけど責務を果たさなくてよいのなら、それは自由では無く自由奔放でしかない。


権利のみを主張し義務は果たさない。権利の行使を当たり前のように自称し、何物にもとらわれない、責務など無いかのように振る舞う......どこかで覚えがあると思って確認したら、まさに「王権神授説」を唱える王族そのものだったことに気が付いた。

ある意味究極の上から目線であり、その観点では「意識チャラい」「自意識高い」のアッパーグレードな表現としても良いかもしれない。「選民意識」にも近いかな、という気がする。

いずれにせよ「自分達は選ばれた存在だから何をやってもかまわない。そして何の義務も負わないし拘束もされない」というのは、非常に危険な発想でしかないのは言うまでもない。

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このページは、不破雷蔵が2017年4月25日 08:04に書いた記事です。

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