ツイッターの良い所は、胸にジャラジャラと勲章をぶら下げたどこぞの将軍のように、プロフを学歴やら著作で飾り立てた実名アカウントが、口を開けば幼稚で頑迷な論理を展開する実態を曝け出し、学者やらジャーナリストが持つ盲目的な権威がガラガラと崩れるところにありますね。
— CatNA (@CatNewsAgency) 2017年5月16日
肩書や経歴、資格はその人物を精査する上での材料の一つでしかなく、それが絶対不可侵の権威を意味するものでは無い。どれほど素晴らしい過去、資格、履歴があったとしても、その内情、実態は正当に評価されねばならない。犯罪でつかまったり酷い事をしていたのがバレた人が「自分は偉いんだぞ、こんな資格を持っているんだぞ」と言い訳をしても、その行為がチャラになるわけではないってこと。評価判断される対象は肩書では無く、その中身、実行為なのだから。
ツイッターは利用が楽で文言も簡単に出力できる。言葉の露出、開示がスムーズにできるので、それこそ井戸端会議的な意思表示が可能になる。その分、自分の素が出やすい。一言二言ならば色々な内面の一局面だけかもしれないけど(たくさんの本音のうちの一つって意味ね)、それが積み重なることで、内面の実態がよく見えることになる。
権威や肩書にあった実情を披露してくれる人も多々居るけど、同時に指摘にある通り、世間一般受けしやすい肩書や経歴、著書からは想像ができないような中身をご披露してくれるのも少なくない。作品や肩書だけを見るのならばその中身は無視しても良いのだけど(クリエイター系は特に)、中の人も多分に絡んだ評価となると、やはり実情は大切だよね、そしてそれが良く見えるのは正しい取捨選択の上では良い情報となるよね、的な。
よく考えてみたら、新聞従事者が資格保有者や有識者と同じような目線でモノを語って信ぴょう性があるかのように読ませるってのはおかしなお話な気も。「新聞記者」がそれなりの権威がある時代ならそれでよかったのでしょうけど、その実情、中身が暴露され、履歴も精査される現在では......。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2017年5月15日
とりわけ新聞などの報道関係筋はこれに当てはまるかなあ、と。恐らくは身内、知り合い、信者的な対象にのみ言及していた内情を次々に述べ、披露することで、内面がよくわかるようになる。そしてこれまで権威とされていた、認識していたものが、単なるハリボテでしかなかったってのが分かってくる。例えば新聞記者とか、その語りの中身の信ぴょう性はどれほどのものがあるのか、その裏付けは......と考えると、新聞そのものの確からしさに何の裏付けもないということに気が付いてしまうのだな。
そしてこれは個人ベースに留まらず、組織や団体ベースでも言えることに違いない。
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