「スマホで卒論は書けないでしょう。何千字も書くのは難しいのでは」といったことをツイートしたら、「私はスマホで書きましたが何か?」的なリプライが来たので自分で試さずに物を言ってはいかんと思い、昨年「ユリイカ」誌の『シン・ゴジラ』特集の原稿をスマホで書いてみたんですよ。(続く)
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2017年5月21日
(続き)で、本が出てから半年以上経った先週、あらためて読み返してみたら、ゲラの段階で校正しているとはいえ、文体はガタガタ、まわりくどい、構成も変、論旨はともかく展開が散漫......という酷いありさまでした。時をおいて読み返すと分かる、というやつですが、馬鹿なことをしたと思いました。
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2017年5月21日
スマホはナイスな道具ではあるけど、機能が限定されているので、それに慣れてしまうと狭い世界で完結してしまう。また、色々な不便さを覚えさせるようになる。包丁とまな板と鍋1つがあれば、料理はそれなりにできるけど、フライパンとか電子レンジとかトースターとか皮むき器とかあると便利に調理ができるよね、的な。あるいは自転車で東京から北海道まで足を運ぶ、とかね。
今件の話はそれを思い起こさせる。スマホで原稿を書けないってことは無い。ワープロ機能があるからね。ただそれは不可能ではないってだけで、まともなもの、自分の納得できるものを、自分の望む効率で行え、望む品質のものが生成できるか否かってのとは別の問題。
「画面が小さい」つまり一望できる範囲の情報量が小さいというのは、全体を通した構成を考えるのにはマイナスであるという、あたりまえのことが分かりました。もっとも、先の原稿も、仕上げの段階ではパソコンに持って行って作業し、構成の見直し等はしたのですが、それでもやはり、という。
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2017年5月21日
特にこの「画面が小さい」って要素はスマホ最大の弱点であり問題点に違いない。それこそが逆に、スマホの機動性の高さのために必要不可欠ではあるから、無くすわけにはいかないのだけど(AR的に空間投影型ディスプレイが登場すれば話は別になるけど、それはまだ先の話)。物事を成すときに一面に見渡せる、参照ができる情報が無い、限定されているってのは、不便極まりない。絵を描く人が巨大なディスプレイを好んだり、証券や金融に携わる人が複数の画面を用意して操作しているってのが好例。
そこまでいかなくとも、大きな画面に複数のウィンドウを開いて、作業をマルチタスクで行ったり、あちこちから参照して検証しながら進めることで、より良いものができるのは言うまでもない。イメージがわきにくいのなら、ノート見開き分しかない机で、どれほど作業がスムーズに進むかってこと。書けないことは無いけど、不便だよね。スマホってのは要するに、そういうものであり、割り切りが必要なんだな。
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