まとまってました。 .@CatNewsAgency さんの「朝日新聞(アエラ)記者と零戦」をお気に入りにしました。 https://t.co/cTO0PbNPjc
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2017年6月6日
ここから始まるTWとリプライは、AERAという写真週刊誌、そしてそれが属する朝日グループの実情を表す一側面である......と認識されても仕方がありません。属性を明らかにする、肩書・所属を公知した上での発言は、そういう意味を持つのです。https://t.co/eU3bdj302t
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2017年6月6日
先日行われた某社主催のエアレースで、復元された零戦が空を舞ったことに関して、熊本の復興が云々、平和が云々とおっしゃられる朝日グループの写真週刊誌AERAの記者が逆切れをなされていた件で。朝起きてこの話を目に留め、色々と見回ったけど、予定調和なところもあり、報道の中の人達の品質の実情にまた1ページ歴史が刻まれたのかなという感もある。
これは何度となく繰り返しているけど、属性を明らかにする、肩書・所属を公知した上での発言(ソーシャルメディアでの書き込みも同様)は、その属性全体に影響が及ぶことを忘れてはならない。個人の感想です云々ってのも通用しない。情報を取り扱う報道関連は特にそう。
せんそうのためにつくられたものが、現在の戦争に役に立たないのになぜ復活させるのだろうと、先に相手に攻撃的な言動を行なったのは竹下さんではありませんか? 彼女の定義に熊本城も当てはまるという反論に、理屈ではなく怒りという情緒で理論を封じ込めようとしているように見えますよ。
— ここくらめる (@yusuke00235889) 2017年6月6日
零戦を「戦争の道具だ」というから「熊本城も戦争の道具ですよね?」と当たりまえのこと言ったらヒステリーとか。熊本城の壁にある穴は「銃で人を撃ち殺すための穴」ですよ?それでも「文化財として残して」のであって零戦だって平和的な文化財になるのは他国の例を見てもなんの問題もない。
— TAKAHIRO F2C (@TakahiroF2c) 2017年6月6日
記事にしてやる とか、ネットでは言い負かされたから反論が来ない紙面で言いたい放題言ってやるってことで、そういうのが新聞記者の卑劣なところですよねぇ。特権意識。
— TAKAHIRO F2C (@TakahiroF2c) 2017年6月6日
そういう「特権を持つ者の一方的な価値観の押しつけ」が新聞やテレビなどメディアが嫌われる原因なのにね。
— TAKAHIRO F2C (@TakahiroF2c) 2017年6月6日
ネットの双方向がそれを駆逐しているという現状に気がついていない。
日本刀も人殺しの道具だが、十分に美術品として通用する美しさのある名刀がいくつも存在する。
— タクラミックス (@takuramix) 2017年6月6日
銃器、兵器についても、そこに美しさを見出す事は少なくない。
さて、そうした武器や兵器に美しさを見出す事は罪だろうか?それらを美しく思う人を好戦的な殺人予備群と見做すべきだろうか?
承前)武器や兵器に美しさを見出す事が、戦争賛美や戦争を望む事に繋がるだろうか?
— タクラミックス (@takuramix) 2017年6月6日
言うまでもない。
それとこれとは別の話だ。
逆に、殺人衝動を持て余し好戦的で戦争を賛美し待望するような人間の目に兵器や武器が一切触れぬようにしたところで、それで戦争を無くせはしない。
承前)零戦に目くじらを立てるAERAの記者のような方々は、歴史に残る美しい言葉の中にも、人を虐げ殺し死体の山を築いたものがある事実について、どう考えるのだろうか?
— タクラミックス (@takuramix) 2017年6月6日
そして、特にAERAの記者であるならば、現在進行形で「売れる言葉」で人を虐げ傷つけている事実をどう考えるのか?
承前)私は忘れていないぞ。AERAの「放射脳が来る」のあの表紙、レイアウト、字体、写真の選択など、お見事な表紙であった事を。それ故により一層の禍々しさがあった事を。
— タクラミックス (@takuramix) 2017年6月6日
誠にインパクトのある整った表紙、言葉の数々...それを作り続ける君らは、今、被災者を撃っているのが己自身のペンと知れ。
承前)自分らが今現在言論の実弾を用いて苦しむ人々を撃ち、吸い上げた注目によって、まさに犠牲者の血をすすって肥え太る存在である事を、いささかも省みる事がないから、零戦はダメで熊本城はOKなどといった気楽な論理を披露できるのであろう。
— タクラミックス (@takuramix) 2017年6月6日
先ずは己のペン先に血が滴っておる事を知れ。
正直、零戦が平和を考えるきっかけになるとか、そんなのもどーでもいいから。姫路城に行って平和について考えるやつなんているの?美しさに感嘆するだけでもいいじゃん。その技術について知るだけでもいいじゃん。
— ぐり@関賢太郎 (@gripen_ng) 2017年6月6日
あくまで「平和ガー!」と喋りたい人は、口をつぐんで、龍ヶ崎の画像(ムスタングと一緒に来た時ね)や今回のエアレースの雄姿を覚えておいてください。
— KGN (@KGN_works) 2017年6月6日
あの姿とそれを喜ぶ人達こそが「平和」の意味だし、それを一緒に喜んでるのが平和な証拠。
これすら判らんなら平和を語らんでほしい。
先の零戦を『零戦は「戦争の道具だ」』云々と言っておられる報道界隈の方々は、まさに零戦を「報道の武器」として用いているように思えてなりません。あるいはPC棒として。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2017年6月6日
(それを言うなら新聞自身もまた、戦争の武器として使われていた時期もあったのですけどね。第二次大戦ではありませんが、テレビなどのメディアも然り。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2017年6月6日
おはようございます。もし個人でのコミュニケーションを取りたいのなら、匿名で身ばれ厳禁でお願いしたいです。実名と所属を明らかにしつつ「個人の意見です」は、諸外国ではどうか知りませんが、日本では通らないと思います。
— OTE (@sougetuOte) 2017年6月6日
おかしいことを「おかしい」と思わない、むしろ当たり前のことだと思うという状態は、常識や社会倫理における基準線がずれている、軸が歪んでいるということなのですね。睡眠不足で意識がもうろうとしたリ判断能力が落ちると、変なことを当たり前のようにしてしまう。あれが継続しているような感じです
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2017年6月6日
TLで見た、零戦とAERA記者の話を見返すに、やはり軸がずれた存在なのだろうなあ、という感想が出てしまうのです。報道はよく「永田町の常識は世間の非常識」なる言い回しを用いますが、実のところ「報道の常識は世間の非常識」こそがより正しい実態なのではないかと思うようになりました。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2017年6月6日
自らツイートをしたり、他の方のお話に大よそ同意な部分をまとめてみたけど、やはり最近はリトマス試験紙的な物事が多いよなあ、という実感はある。意思表示のハードルが思いっきり低いソーシャルメディア、中でもツイッターの普及や、情報のサルベージと集約が容易なインターネット上の情報の特性が、大いに貢献している。
思うことと第三者に向けて発信することとは別物なのだよね。表現の自由はあるけど、それは同時に他の人からツッコミを受けるかもしれない事をも意味する。一方的に情報発信をして、ツッコミを受けずに済むような、昔ながらのメディアの姿勢は、もう通用しない時代なのだけどね......。
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