学者や言論人や表現者が時々口にする「ものを言えぬ空気」と言うのは、正確に言うと「誰からも批判される事もなく私たちだけが特権的にものを言えなくなった」という事だ。言いかえれば、「学者も著名人も市井の市民も対等にものを言えるようになった」という事である。
— 井上リサ☆玄海紀行 (@JPN_LISA) 2017年6月7日
言論インフレですね。全体にレベルが上がるのでよいことだと思います。
— sasanishiki (@saskind_grav) 2017年6月7日
以前の「私達は怒っています」周りで指摘した【「物言えぬ社会」って「RTやいいねしてもらえない」ってことだよね】と近しいお話を、別の切り口で表現したものとして、「言論インフレ」ってのは素晴らしい言い回しだよなあ、ということで覚え書き。
言論は誰にでもできるけど、一定レベル以上の公知能力を持つか否かとの観点では、昔はごく一部の人、業界に限定されていた。しかし今はそのハードルが大きく下がり、より多くの人ができるようになった。よほどの運が無い限りは、芸能界入りするのにはタレントの親族だったり、事務所入りして訓練を重ねて能力を発芽させなきゃ無理だったけど、今では写真や動画を撮ってネットにアップしていけば、能力と運が味方をすればの話だけど、同様の公知力を得て、注目を集めることが可能となる。
本来のインフレの意味ってのは、紙幣流通量が増えて相対的に既存の手持ち紙幣の価値が下がること。今件の「言論インフレ」は紙幣の量が、公知可能な言論・発言の量に差し代わったところだろうか。
さらに双方向性の問題もある。かつては少数の人による「言論」が押しつけられる形だったけど、誰もが言論を成し、その相互的なやり取りもできるようになると、かつて言論をつかさどっていた人の絶対的な立ち位置は失われる。
例えばかつてはクラスのお金持ちの人が漫画雑誌を持ってきて他の友達に読ませて番長的な立場に君臨できたけど、皆が漫画雑誌を買う、買えるようになると、さらには買った人同士での貸し合いができるようになると、そのお金持ちの人の漫画雑誌に関わる立ち位置の絶対感が失われる。
既存の価値観でしか動けない人にとっては、言論インフレの状態は「ものを言えぬ空気」に見えてしまう、と。スマホやデジカメとYouTubeの普及浸透で、映像コンテンツを独占していたテレビの社会的価値観が相対的に下落したのと同じなんだよね。
インフレを極端に嫌うのは、既存の価値(観)に安穏とできる状態を良しとする界隈。社会保障や蓄財周り、そして脱成長論と構造が似ているような気もするな。
コメントする