「僕たち同じ、音のない世界に今はいるんだね。でも全然平気だ、君の顔はちゃんとみえるし、声も文字になって聞こえる。文字が僕たちのコミュニケイションを導いてくれる」(中略)UOは彼ら聴覚に障害のある人たちの間でとても人気があるのだという https://t.co/A4pMWCRb8x
— 稲見昌彦 Masahiko Inami (@drinami) 2017年6月18日
"外に出たいが周囲の音が聞こえない彼らは、出かけるのが恐いと思うこともある。距離が離れてなかなか仲間とも出会えないため、電子メールやIRCなどを使って話をすることが多い。そんなある時、「これなら距離に関係なくあって一緒に話せるよ」とある一人がUOの存在を口にしたのが始まりで..."
— 稲見昌彦 Masahiko Inami (@drinami) 2017年6月18日
「僕らにとって、ブリタニアは障害のない世界なんだよ。とても楽しいよ。PKにやられて悪態を吐くのさえ楽しいね」 https://t.co/A4pMWCRb8x
— 稲見昌彦 Masahiko Inami (@drinami) 2017年6月18日
MMORPGが聴覚障碍の方に人気とは聞いていたけど、物理法則によって支配された実世界では上手く活躍できない人が、VRでは身体、年齢、性別の差異を超えて能力を発揮できる。リアル原理主義的な意見も多いけど、VRはこんな可能性も秘めているんだよね
— 稲見昌彦 Masahiko Inami (@drinami) 2017年6月18日
「UO」とは「ウルティマオンライン」のこと。かつてクォータービュー表示だった、今では3D表示の多人数同時参加型ネットワークロールプレイングゲーム(MMORPG)。日本でも一時期はサポートしていたので知っている人も多いはず。入力デバイスはキーボードとマウスで、出力は画像と音だけ、なんだけど音は基本的に効果音なので、会話なども基本的に文字でのやり取りとなる。
そのような世界では聴覚に問題を抱えている人でもごく普通に意思疎通ができる。文字でのやりとり、筆記交流が当たり前の世界。多人数同時参加型ネットワークロールプレイングゲームの世界は、見方を変えるとそういう人たちの世界と同じ環境にあるものでもあった。表現の制限があることは、その制限を元々有している人にとっては、平等な世界でもある。この発想は無かった。
いや、逆か。環境設定を変えることで、本来の世界ならば難儀する人も、そのハードルを越えて同じラインに立てる。歯が欠けた人も差し歯などで普通に食事ができるようになるとか、視力が落ちても眼鏡で補正するとか。
そしてその発想はVRにも活きてくる。VRではリアルの当人で無い人に化ける、成り代わることもできるけど、それはリアルな状況で欠けているものを補完できることになる。誰もがカールルイスやベンジョンソンのような走りを、いやスーパーマンのような走り、空中飛行も体験できる。
こういうのはあるよなー。抽象化をすることでハンディキャップが消失する事例。 https://t.co/V3BKqf1JKA
— mogmod (@mogmod) 2017年6月18日
ハンディキャップ自体、その時代の中心的な産業で要求されるスキルの対極として定義された人工概念ですからね。ド近眼で運動音痴の私は、身体能力が資本の時代では半端もの扱いだったと思います https://t.co/CUo0kICbK2
— 稲見昌彦 Masahiko Inami (@drinami) 2017年6月18日
なるほど、五体に頼らない娯楽という側面ではとても平等だし可能性を感じるなぁ。個人的にはVRって少し懐疑的に見てる方なんだけど、別視点では確かに評価できる。 https://t.co/CrUZ7j8Xot
— 白ペンギンHILO (@HiloPengin) 2017年6月18日
ハンディキャップとは平均的なレベルから落ちているものを表す一つの表現。それを別の世界に転送する際に色々と補正して、同じラインに立たせるってのは非常に興味深い発想。VRの可能性というか切り口として、この概念があると、色々と新しい見方ができるに違いない。
この間の講義で、「そもそも画像を言葉に変換して何がうれしいんですか?」て質問があった。こういう質問ができるのは素晴らしいと思う。
— Hideki Nakayama (@n_hidekey) 2017年6月18日
僕の答は「それは少なくともこれまでは人間は主に言葉で世界を理解していると信じられてきたから。多分検索エンジンの影響が大きい。でも最近は必ずしもそうじゃないことにみんな気づきはじめ、画像というモダリティ自体を大事にする方向性が急成長している。」
— Hideki Nakayama (@n_hidekey) 2017年6月18日
動画(YouTubeなど)とか。画像や動画は言語の壁を超えます。特にぬこ。https://t.co/uoY0FW6rbP
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2017年6月18日
色んなPRの人から聞いたのと実体験込みで言うけど、動画撮っていいイベントで撮らないのはそろそろありえない。編集ができないなら覚えるべき。機材がないなら編集長のケツを蹴るべき。動画やらない人は数年以内に「俺はメールとか使わないから。FAXでよろしく」って言ってた人と同じになるよ。
— Mill Yoshi (@ntheweird) 2017年6月18日
発想法としては文字と動画の違いもあるかな。文字はその言語を理解していないと分からないし、文字を読めても色々な背景を知らないと中身を知ることは難しい。でも画像や動画ならば、言語の壁を超えて色々と意思表現が可能になる。無論自分が意図したものとは別の解釈をされることもあるけど、それは言葉だって同じ。YouTubeなどの動画共有サイトがワールドワイドに浸透しているのも、スマホで撮った事件現場映像が世界中に広まっていくのも、言葉では難しい、画像や動画ならではの表現特性によるものだろう。
無論、言葉などいらぬというわけでは無い。それぞれの特性、長所・短所があるってこと。その特性を知った上で使い分け、併用ができると、色々と楽しいことになるのだろうな。
コメントする