事ある度に「元の発言は不用意」なる指摘が成されますが。報道の実情は扇動できる、騒げる、注目を集められる、核心的利益にかなうものなら、それこそ切り貼りや歪曲、想像による創作まで成して、発言をしたと「報道」するのですから、不用意云々の意味はありません。一次ソースが必要な時代です。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2017年6月27日
(もっともこれは今の「報道」の存在意義が無い、せいぜいアンテナ代わりにしかならないことを意味し、それは確かなお話に違いなく。何しろ「東京駅まで行って」とタクシーに乗り込んでも、「気分がすぐれないので新宿駅に行った」「腹が減ったのでファミレスに寄った」的な事を平気で成すわけですか)
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2017年6月27日
話のトリガーとなった特定事案を挙げるのは、その報道の意図に加担することになりかねないので避けておくけれど。その件に限らず何らかの事案の際に、元々の発言の趣旨や背景、場所、前後の関係をふっ飛ばす形で、一部を切り貼りされたり、さらには言葉そのものを差し替えられる形で、あたかも該当人物が発言したかのように伝えられることがある。いわゆる「分かりやすいけど正しくない」を悪用した形ではある...って「正しくない」時点ですでに悪しき事ではあるのだけど。
一つ一つは些細な事で、時には後に訂正されることもあるけど、そういう印象付けが積み重なる事で、なんとなくという雰囲気でネガティブなイメージが盛りつけられていく。いわゆる「印象操作」というものだ。成す側が意図的なのか、半ば無意識なのかは別として、公明正大が大前提、社会的責務である報道が、絶対に手をつけてはいけない手法。
しかし現実としては、そのような悪編集が日常茶飯事的に成されているのが現実。「不用意な発言はするべきではない」とよく指摘もされるけど、どのような発言をしても切り貼り抽出して印象付けをされるのであれば、何もしゃべらないことでしか対応はできなくなる。そして語らなくても「誠意がない」と表現されたり、どこからともなく関係者の話云々という形で「語らせる」のがオチ。
「そんなことをするわけがない」「度が過ぎている」と思うかもしれない。「極端に過ぎる」と鼻で笑われるかもしれない。しかし現状がすでにその領域にあると、誰が否定できようか。
このような時代であるからこそ、いや元々こんな状態だったのがその実情が暴露されただけなのかもしれないけど。報道界隈による「さあ、騒ぎましょう」「これは問題ですよね」
的な意図が見える報道には、一歩引いて、少なくとも一次ソースを見極めてから、反応をしないとまずい時代になっている。見方を変えれば今の報道は多分に、従来求められていた「報道」の意義が失われている、せいぜいトリガー的なものぐらいにしかならないのだよね。水が欲しくて蛇口をひねったのに、出てくるのは砂糖水とか泥水って感じだもの。
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