「ネコババした」
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2017年6月29日
『してません』
「ネコババした」
『してません』
「ネコババした」
『してません』
「ネコババした」
『してません』
「ネコババしたらしいけど、あいつは否定した。感じ悪いよね」
これが新聞でまかり通る時代。報道ってなんなのかなあ、と。
いちゃもん付けた者勝ちみたいな流れ、何とかなりませんかね...
— 匹夫のアクア (@noisydrop00) 2017年6月29日
先日の東京新聞周りの記者の資質の件とか、元復興相への活動家記者への「質問」の件はあまりにも顕著ではあるのだけど。昨今の報道界隈の挙動って、上の文章で大よそ表現できるようなケースが増えている。報道の手段が印象操作に使われている、と端的に表現したらそれでオシマイなのだけど。
まさにイチャモンをつけた方が勝ち、悪魔の証明を求めて、それが出来なかったらコロンビア的な勝利って状態になっている。変だよね、それ。
魔女裁判すね。
— 鉄人 (@saba3week) 2017年6月30日
吐かなきゃ拷問、吐いたら火あぶり。
否定ばかり、怪しい
— 豚丸@老人性脱毛症会議議長 (@Fu_tujin) 2017年6月30日
ですからw
ネコババしてないなら証拠を出せ!←悪魔の証明のコンボ
— 謙三 (@f_kenzou) 2017年6月30日
証拠もなしに何度も同じ事を繰り返す事による印象操作。それと
— ぱんだこぱんだ (@PanDa942) 2017年6月30日
「ネコババした」
『してません、これ証拠』
「あれ壊した」
と謝罪もなく別の話題で同じ事を繰り返す。 https://t.co/gOu6PXTetr
「報道とはなんであるか、どうあるべきなのか、社会からはどのような形が求められているのか」が改めて問われるべき......という話はここ数年定期的に生じている。最近はその頻度が上がっている覚えがある。可視化が進んでいるのか、報道界隈が先鋭化しているのか。恐らくはその双方なのだろう。中世ヨーロッパで魔女裁判を求める教会側の立場にでもあるつもりなのだろうか、今の報道界隈は。
社会に対する有意性、貢献といった存在意義、公共性があるからこそ「情報の公知能力」という「力」を与えられている報道界隈が、その「力」を濫用し、好き勝手なことをしている。それはまるで社会維持のために拳銃やパトカーを使うことを許されている警察官が、自分の好き勝手に拳銃で他人を脅したり、家族旅行で信号を無視してパトカーで走り回るようなもの。それが許されるはずも無く。
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