「金がすべてじゃない」なんていうけど、社会の問題のかなりの部分は「金で解決できる問題」なんだよ。そして金で解決できる問題を金以外で解決しようとすると「本来解決に必要だった金の何倍もの労力と金がかかり、しかも解決できない場合もある」ので、金で解決できる問題は金で解決した方がいいよ_
— 青木文鷹@日曜R17a・大将軍神社研究会 (@FumiHawk) 2017年7月6日
同時に「経済成長がすべてじゃない。景気より財政規律」と主張する人には「経済成長と景気回復で、現在の社会問題のかなりの部分は解消する」ということをお伝えしたい。イデオロギーや清貧主義じゃ飯は喰えんのよ____ https://t.co/PdEmlSgmIP
— 青木文鷹@日曜R17a・大将軍神社研究会 (@FumiHawk) 2017年7月6日
先行記事のボランティア周りでもちらりと出てきたけど。守銭奴という言葉にもある通り、お金の話は汚い、積極的にしちゃいけないという風潮がある。経済成長周りの話をしても、しかめっ面をする人が少なからずいる。質素な生活こそ一番で、お金を使うこと自体が罪悪だ、的な感すら覚える。お金を武器にするのは良くない、的な。
けれど指摘されてる通り、お金でたいていのことは解決できる。むしろ逆で、そのための存在として定義づけられ使われているのがお金。お金じゃなくても解決できる仕方もあるってケースでも、大抵はお金で終わらせた方が楽で、実際にはコストも抑えられる場合がある。
お金で解決できないこともあるとか、そのような人たちが大いに旗印として掲げているのが「お金が、経済成長がすべてじゃない」。さらには昨今の国家財政とも合わせ、「だから景気より財政規律が大切」という主張まで成される始末。
でもさくっと考えると、『お金が、経済成長がすべてじゃないなら、経済成長でほとんどが解決できるのだよね。「すべてではない」というのなら、「例外もある」程度の意味合いなのだから。それと「景気より財政規律を優先する」べき理由は何の連動性もないけどね」』でオシマイとなる。そもそも財政規律の必要性って、どのようなもので、どこまで必要なの? 財政規律を優先してギリシャの現状のようなことになり、主張した側が自己満足に浸ればすべてよしって考え方なのかしら。
小学生のときに二宮尊徳の伝記を読んでいちばん感銘を受けたのが
— くまねこ (@kuma_neko_) 2017年7月6日
「道徳なき経済は悪徳だが、経済なき道徳は戯れ言である」
て一節で、「お金がすべてではなく、お金があるのが前提なんだ」「良いことをするのにもお金はかかるんだ」というのは当たり前なんだが、大事なことですよ。
二宮翁夜話 https://t.co/3ElGpjVali これが原典。内容紹介に「道徳を忘れた経済は罪悪であり、経済を忘れた道徳は寝言である」とあり。ただし(続く)
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2017年7月6日
【二宮尊徳の名言?】以前ネットで、二宮尊徳(いわゆる二宮... - 人力検索はてな https://t.co/J31W9Aa016 にある通り、ダイナミックな意訳とのこと。社会の用をなさねば寝言である+社会を豊かにし福利厚生を増進するのが聖人である をそれっぽくまとめた感じ。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2017年7月6日
で、今件に合わせ二宮尊徳氏の話が出てきたので、覚え書きも兼ねて。「道徳なき経済は悪徳だが、経済なき道徳は戯れ言である」ってのは言い得て妙だけど、あまりにも現代的過ぎてちょいと首傾げ。
ということで調べてみたら、尊徳氏の言葉そのものではなく、それを解説した本で使われていた言い回しだったというお話。ただ、それっぽいことは原典にも書かれてあり、それを今風にまとめ直したというところ。
しかしながら「社会の用をなさねば寝言である」「社会を豊かにし福利厚生を増進するのが聖人である」という言い回しの方が、むしろキツい内容のような気がする。
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