「報道の自由」が日米を問わず「報道の自由奔放乱暴狼藉無責任」となっている昨今を見るに、報道そのものの現状までのスタイルにおける寿命が来ているのかなという感が。少なくとも前世紀までの「報道の自由」なる言葉の主旨、意味合い、大義は失われてしまっています。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2017年7月26日
「報道の自由」が必要不可欠なのは、事実を不特定多数に知らしめ、現状の正しい認識を多数にさせるのが、民主主義を確立し、維持していくのに欠かせないからなのですね。その社会的意義の必要不可欠性を悪用し、「報道」の部分に「論評」「発信側の思惑」を混ぜてしまっているのでおかしくなるのです。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2017年7月26日
年一で発表される「報道の自由度」のランキング(国際NGOフリーダム・ハウスの方)の記事を精査する時とか、昨今の報道姿勢の動向でツッコミを入れるたびにオールマイティカードのよう振りかざされる「報道の自由」なる文言を見聞きするたび、このような話が脳内でエンドレスエイト状態になってしまう。
フリーダム・ハウスの設立趣旨などにも書かれているけど、「報道の自由」が崇高にして必要不可欠な存在だとされるのは、事実を不特定多数に知らしめ、現状の正しい認識を多数にさせることが、民主主義を確立し、維持していくのに欠かせないからなのだよね。そが報道の社会的存在意義であり、使命てあり、責務である。その必要不可欠性を悪用し、「報道」の部分に「論評」「発信側の思惑」を混ぜてしまっているが現状なわけだ。
以前【今の報道の品質と姿勢は「時計仕掛けのりんご」を思わせるようで】でも触れたけど、必要不可欠な主食の中に、人を無気力にする薬を混ぜて人心をコントロールさせる「時計仕掛けのりんご」そのままの状況を報道界隈が成している感は強い。これではまるで、社会主義・専制主義体制とどれほど違うのか。君臨している頭が異なるだけ。
「報道」で求められているのは「事実」であって、語り手の「真実」「思い込み」「知らしめたい考え」ではない。例えばあるゲームで「100万本売れた」は事実であるけど、「プレイヤーは騙されている」「信者乙」「あんなつまらないゲームに100万人も金払ったのか」「こんなゲームが売れるのはゲーム業界が退廃している」などというのが、語り手の真実。
事実報道と論評を織り交ぜる方法論は【新聞で見かける「波紋が広がりそうだ」「議論を呼びそうだ」は記者や新聞自身の想いを込めたメッセージ】でも言及したような、テンプレート化しているものもある。その表現が出てきたら、その部分は書き手の想いが事実に混ぜられていると判断してほぼ間違いない。また【記事タイトルに感情表現があったら読まない方が正しい判断ができそうな気がする】にもある通り、記事タイトル内に感情的な表現があれば、少なくとも事実報道としては中身に目を通す必要は無い。
論評のたぐいなら今ではいくらでも好きなものを、精度の高いものを取得することができる。そのような中で、あえて事実を混ぜていかにもすべてが事実であるかのような偽装をしたものをわざわざ読む必要は無いのだけどな。そして報道として知りたいのは事実であり、書き手の想いとか伝えたい事ではないのだけどな。
コメントする