「政府側の答弁が分かりにくい」のもう一つの理由

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スピーカーやアンプ、プレイヤーが正常に作動していないと、いくら音源がまともな音を記録していたとしても、その音を普通に聞くことはできない。新品の映画のDVDを買ったのに再生機が壊れていたら、その映画を観る事は出来ないってのと同じ。

で、先日「政府側の答弁が分かりにくい」との話を見聞きして、その理由を考えてみたのだけど、その理由の一つが最近特に問題視されている、報道の切り貼り編集問題。これも結局のところ「分かりやすく正しく伝えるとの責務を果たしていない」に包括されるような話ではあるのだけど。好き勝手に、大意を理解せず、さらには大意を無視して切り取り貼り付けしていたのでは、伝えたい意図が伝わるはずもない。【「言葉を切り取りされるのを前提」とフェイクな編集報道を肯定するメディアのトップ】でも触れてるけど、この類の編集は報道界隈が肯定しているどころか、当たり前のように認識しているからねえ。

例えば「吾輩は猫である」の冒頭をこんな風にしてみる。

吾輩は無い。どこで生まれたのか書生という人間を煮て食うという話である。ニャーニャー泣いて手のひらにのせられてまるで薬缶だ

書いた本人もまったく分からない。猟奇的な香りすら覚える、とてもおかしな文章。でもこれ、「吾輩は猫である」をちょいと切り貼りしただけなんだよね。これと同じようなことを、報道界隈が日常茶飯事的に成しているのなら。語り手側の文言が伝わらない、分かりにくいのも理解はできる。

報道は事実を伝えるのが第一の責務。そのままべたコピーでは存在意義が無いので「分かりやすく正しく」まとめる必要がある。それには経験や知識、能力が必要不可欠。それらのスキルを持たず、さらに権限を悪用する形で情報を好き勝手にいじっている今の報道の姿勢が、世の中の問題点の少なからずの要因となっているのではないかな、と思う。

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このページは、不破雷蔵が2017年7月28日 07:51に書いた記事です。

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