テレビやラジオのような電波放送による一過性のメディアは特に、能動ではなく受動での対応となるので、時系列的に情報を取得するのが難しいのですね。だから切り貼りによる印象操作が楽にできた。紙媒体は精査が可能ですが物理的な場所が必要で時間もかかる。けれどネットなら容易にできるのですね。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2017年7月27日
テープ式の再生装置、例えばビデオテープで映画を観るのか、YouTubeで動画を観るのかの違いのようなものです。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2017年7月27日
先日病院の待合室で久々にワイドショー的なテレビ番組を観て、その内容にツッコミをしまくりながら「ああ、こんな内容のを複数の体の器官を用いて集中しながら受け取っていたのでは、学習、悪く言うと洗脳されると同じだよなあ」と思った。
テレビやラジオのような電波放送による一過性のメディアでは特に、新聞や雑誌のような能動的アクションすら必要なく、ほぼ完全に受動的な状態で長時間情報を連続的に受け取ることになる。しかも情報の巻き戻しとか、外部に意識を移して精査をすることも無いので、時系列に情報を取得するのが難しくなる。時系列的にはばらばらな四コマ漫画を、読み返しをせずに読んでいるようなもの。要はランダムアクセスが出来ないので、物事の構成を推し量るのが難しくなるのだな。
それゆえに切り貼りによる印象操作が楽にできた。新聞や雑誌のような紙媒体は精査が可能だけど、物理的な場所が必要で時間もかかる。何を使って調べればよいのかすら分からないことも多い。けれどネットなら容易にできる。時系列的な並べ替えもすぐにできるし、変な切り貼りをしていても精査によって「おかしいぞ」と気が付くことができる。
例えとして挙げたように、巻き戻しが面倒くさいビデオテープでとかさらには映画館で映画を観賞するのか、それともランダムアクセスや任意でのチェックが可能な動画で観賞するのかの違いのようなもの。
そば事案(森友、加計)での報道姿勢が顕著なのだけど、テレビやラジオのような電波媒体、そして紙媒体でも新聞のような一過性での情報取得スタイルが一般的なものにおいて、いかに時系列を無視した報道、情報配信が多いのかがあらためて認識される形となった。確かに時系列的に物事を考えて、その情報の意味を見出したり、良し悪しを判断するのは、時間もかかるし面倒くさいし、精査した結果として公知する価値そのものが無いということもある。その時はリソースを投入して成果なしってことになる。
でもそれをやらなきゃ、報道としての意義は無いし、論評などの情報配信においても、ツッコミされるだけの存在となるのだよね。......まぁ、あるいは意図的に時系列の概念を棚に置いているのかもしれないけど。
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