"論文指標偏重の評価システムは明らかに不見識、かつ若い世代の価値観を拘束し、生き方を誤った方向に導くため、強く再考を求めたい。全体統計的にも、また個々の評価についてはなおさら問題は大きい。" https://t.co/63dR7JDVaW
— 稲見昌彦 Masahiko Inami (@drinami) 2017年8月11日
"アカデミアの研究の多くは計画立案から、論文発表まで全て研究者に任されるため、主観的評価はつまるところ、自らに委ねられる。若い研究者には、人生に一編でいい、「これこそ自分である」の想いのこもった作品をつくるべく、気概をもって歩んで欲しい。ならば悔いは残らないであろう。"
— 稲見昌彦 Masahiko Inami (@drinami) 2017年8月11日
こんな話、まさに先日台湾の先生方と話したな。研究はアートに近い表現活動のはずなのに、運動競技のようにプレイする人が国際的にも増えてきたのは、おそらく近年の数値偏重の人事評価制度、つまり評価者が自らの価値感に基づき判断する責任を放棄した結果だよねと
— 稲見昌彦 Masahiko Inami (@drinami) 2017年8月11日
そして研究評価の数値化によって研究者側も自らの価値観と責任に基づいて研究テーマを選ばず、トレンドや採択率、IFなど外部に価値を求めるようになってしまう。自らの内的価値の体現として研究しているのであれば、研究不正も本来起こり得ないように思う。それは自分を偽ることに他ならないから
— 稲見昌彦 Masahiko Inami (@drinami) 2017年8月11日
ランキングとか数値化はその領域に疎い人のためのものなんだよね。ミシュランガイドだって地域の人でなく観光客のためのもの。このあたりの話と研究者人生の折り合いについては西田豊明先生の発言が興味深い https://t.co/LiGy0asILt
— 稲見昌彦 Masahiko Inami (@drinami) 2017年8月12日
領域が違うと価値感も違う。HCI系の先生がロボット系の国際会議の話を聞いて「え、こんなに採択率高いんですか。トップカンファレンスってないんですか?」と口走ったり、ロボット系の先生が「情報系はなんで雑誌論文少ないんですか?」って人事で疑問を呈したり、隣接領域でさえこんな感じ
— 稲見昌彦 Masahiko Inami (@drinami) 2017年8月12日
で、「なるほど、文化が異なるんですね」で済めば良いのだけど、自らの分野の定規を振りかざして「そもそもあの分野は研究領域としていかがなものか」とか言い出す方が稀にいらっしゃったりするのが難しいところ、誰か「その定規はインチスケールですよ」と教えてあげてほしい
— 稲見昌彦 Masahiko Inami (@drinami) 2017年8月12日
物事を評価するのに指標化を行うのは人の知恵に他ならない。数字ならば簡単に比較ができるし、上下も容易に掌握できるし、動向もグラフ化などで分かりやすい。ただしそれは物差しの作り方で変わってくるし、数字化できない部分の評価がないがしろにされかねない。指標は物事を把握するのに必要な指針であるが、同時にそれは一側面でしかない。その指針に物事そのものが振り回されていたのでは困りますよ......
......という話を、ここ数日来話題に登っている、日本の論文数とか引用数に関して思っていたのだけど。大体語ってくれたお方がいたので、覚え書きとして。
例えば飲食店で数を裁くのを優先するあまり、食品の安全性や味わいに懸念が生じたらどうだろうか。作った料理数は数字化されるけど、安全性とか味わいは数字化されない(リスクが体現化すれば話は別だけど)。絶対数が求められていたり、これはここまでやらねばならないという最低限必要なラインが設定されていれば話は別だけど(例えば文筆とか漫画における締切とかね)、そうでない場合においても、指標を押し上げるために他の要素をないがしろにしていないだろうか。
「評価行為と手段は被評価者の行動規範を左右するので、評価者は手続きの便宜性や形式的な透明性ではなく、結論の正当性に責任を負わねばならない。」 https://t.co/OksGPqPnhr
— masuda kaz (@masudakz) 2017年8月11日
"論文指標偏重の評価システムは明らかに不見識、かつ若い世代の価値観を拘束し、生き方を誤った方向に導くため、強く再考を求めたい。全体統計的にも、また個々の評価についてはなおさら問題は大きい。" https://t.co/PmapKtfNzX
— 片桐 孝洋 (@Taka_Katagiri) 2017年8月11日
まさに運動競技化。ある意味、点数や偏差値を競うのが好きな日本人には向いているとも言えるが、それによってノーベル賞級の研究や生活を一変させるイノベーションが生まれるという保証はない。 https://t.co/7UB8HkQrFi
— やのせん (@yanosen_jp) 2017年8月12日
うちは「研究の数量のみ評価します」と明言されて、「教育も校務もお断り」という人がさらに増えたようにしか思えません。「若い世代の価値観を拘束」は本当に大問題。 https://t.co/5erZJzCnbJ
— くとの (@chthono) 2017年8月12日
数年前の「成果が出てないから意味が無いので打ち切り」「何年もかけないと完成しないから意味があるのか」「成果を上手く説明できないのならば中止」的な、問答無用で科学を魔女裁判にかけた、数年前の例のアレを思い出させるのだな。
まぁ、指標化に頼った方が簡単だし、責任逃れもできる。「だって数字に従ったまでだもん」。本来の指標化ってのはむしろ逆で、指標化した上でその先を見通し、数字では見いだせない、見出しにくい部分までも推測し、全体像を推し量ることこそが大切であり、指標化の意義ではあるのだけど。目的と手段を入れ替えてしまっては困るのだよね。
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