日曜ビッグ「池上彰の戦争を考えるSP第9弾 『特攻』とはなんだったのか」 | テレビ東京 https://t.co/Ey803Cc767 これね。覚え書き。今や池上氏は別の意味でのフラグとなってしまいました。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2017年8月13日
今TV付けたら池上彰が「人間爆弾桜花での戦果はゼロだった」とか言ってるんですが... 「視聴者に分かりやすい言葉で巧みに嘘をつく」よねこの人...
— 金子賢一 (@Kenichi_Kaneko) 2017年8月13日
池上彰「大和が沈んだことを国民に知られたら大変なので、国民に秘密にした」
— みなせ_C92_土_8/12東ミ-05a (@Ton_beri) 2017年8月13日
せやったっけ?
そもそも大和を造ったことを戦争中は国民に公表してなかった気がするんだが・・・ https://t.co/nHKmciYb3j
— JSF (@obiekt_JP) 2017年8月13日
8月15日は終戦記念日。それに伴い毎年さまざまな歴史、戦争関連のテレビ番組が放送される......のだけど、かつてテレビの内容を一方向的に受け取るしかなかった時代ですらも、自分の仕事や趣味の上でその方面の話を色々と調べていた当方としては、ツッコミどころが結構あった。ネットが普及浸透して多方面の有識者(本当の意味で)の意見を聞くに、ツッコミをするのは当方だけじゃなかった、むしろ当方のなどミジンコのひとなでぐらいのレベルだったのだと再認識させられる。
池上彰氏に関しても、この数年で大きくイメージが変わってしまった。「番組に語らせられているだけだから」と擁護する人もいるけど、それでは直前に会話をした人の言うなりになる某鳩山氏と何ら変わりはない。今やこの人が登場するお話では、数キロメートルほど距離をおいて眺めた方が安全な感は多分にある。それほどまでに内容への信ぴょう性が疑わしい。むしろ番組や雑誌などが広めたい事、風評したいことを氏の知名度を使って、氏自身もそれを喜び勇んでいるような。ただ、脅されたりしているわけではないのだから、氏自身も同罪ではある。
「専門家の話と一般の人の認識は違う」との話もあるけど。これも何度も繰り返している通り「分かりやすくても正しくない」は絶対やってはいけない。それは単なるウソ、プロパガンダでしかない。
「海軍400時間の証言」もそうだったが、近年のNHKのドキュメンタリー番組、自局で取材したものでない私的に録音された音声を「死人に口なし」とばかりに勝手な解釈、解説をつけて公開し、それを「新発見」とか「証言」と呼ぶのは、他人の褌で相撲を取るようなもの、とても卑怯なやり方だと思う。
— 神立尚紀 (@koudachinaoki) 2017年8月13日
某国営放送局のインパール番組予告編を観たのだが、イギリス軍による日本軍指揮官の尋問記録とか、牟田口の証言録音(国会図書館のアレだろ?)とかを「見つかった」としていて、不吉な予感しきり。まさか、あなたがたが知らなかっただけのことを新発見と称しているのではないでしょうね。
— 赤城毅/大木毅 (@akagitsuyoshi) 2017年8月13日
イジワルな要求であるのは重々承知しているのだが、NHKには、他人さまを批判する前に、戦前・戦中に日本放送協会が何やってたのかを検証するドキュメンタリーをつくってほしい。ホントは、いろいろ史料持ってるんでしょ?
— 赤城毅/大木毅 (@akagitsuyoshi) 2017年8月13日
しかし、NHK、新発見とか新史料とかいうと、ホントかと批判されることに気づいたのでしょう、「見つかりました」という表現にしたのは、さすがですね。(続)
— 赤城毅/大木毅 (@akagitsuyoshi) 2017年8月13日
(承前)思えば、昔、『ムスタン』でヤラセが発覚したときは、NHKも神経質になっていて、太平洋戦争もので、それではない映像を使うときには、わざわざ「イメージ映像です」とテロップを付けていた。(続)
— 赤城毅/大木毅 (@akagitsuyoshi) 2017年8月13日
(続)実際、日本側のムーヴィは相当程度、特定できるんですよ。昔、本間金資さんをはじめとする戦時カメラマンの座談会をやったことがあったが、今日残っているムーヴィのかなりの部分は、このひとたちが撮ったのだなあと感慨を覚えたことでありました。
— 赤城毅/大木毅 (@akagitsuyoshi) 2017年8月13日
戦時中の日本ニュースは、戦後に目録がつくられたし、毎日新聞社の「一億人の昭和史」シリーズの『日本ニュース史』はそれを土台にしている。
— 赤城毅/大木毅 (@akagitsuyoshi) 2017年8月13日
研究上の常識となっていることを、普通の視聴者が知らないからといって、新発見と吹聴していいことにはなりますまい。 https://t.co/PdSju5RoY3
— 赤城毅/大木毅 (@akagitsuyoshi) 2017年8月13日
いつも苦々しく思っているんですけど、マスコミって、研究者が手間暇、さらにはお金をかけてあきらかにしたこと、すでに論文などで発表されていることを、「見つかった」とか、自分で探り当てたようにしますよね。ああいうのは、いかがなものかと思います。
— 赤城毅/大木毅 (@akagitsuyoshi) 2017年8月13日
昔、ドイツと日本の研究者がそれぞれ論文に書いた事実を、某国営放送局のディレクターが、「俺が初めてやった」と言い切ったのを聞いて、いまだにマスコミへの不信が抜けない。もちろん、そのディレクター氏には、そくざに文献名をあげて、あなたの前にすでに二人いますよと指摘したが。
— 赤城毅/大木毅 (@akagitsuyoshi) 2017年8月13日
マスコミの「新発見」フレームアップを批判すると、必ずマニアではない普通のひとは知らないから意味があるとか、戦争を知らない世代に繰り返し伝えるのは大事だといったリプが返ってくるが、そういうことではないのです。センセーショナルに「一番槍」の功を盗む卑しさはどうかと言っているのです。
— 赤城毅/大木毅 (@akagitsuyoshi) 2017年8月13日
繰り返しになりますが、われわれは(少なくとも私は)、怪しげな「新発見」ではなく、製作側が真摯にテーマに取り組み、それに賛成するか反対するかは別として、考え抜いた主張をなしたドキュメンタリーを観たいと願っていると思うのですが、いかがか?
— 赤城毅/大木毅 (@akagitsuyoshi) 2017年8月13日
なお、某国営放送局のドキュメンタリーは、いろいろ問題があると思うが、民放のそれの作り方はもっとひどいです(関わった実体験より)。
— 赤城毅/大木毅 (@akagitsuyoshi) 2017年8月13日
まあ、くだんのディレクターは、日独の研究者に頼って、当該の文書を入手したんですがね。
— 赤城毅/大木毅 (@akagitsuyoshi) 2017年8月13日
むろん、アカデミズムに頼り切っての「新発見」でも、メディアでは「一番槍」の功績だというなら、何をかいわんや、です。
— 赤城毅/大木毅 (@akagitsuyoshi) 2017年8月13日
まあ、くだんのディレクター氏は、日独の研究者をネグレクトして(その論文を頼りに「新発見」の文書に行き着いたのですが)、「俺が最初にあの文書を発見した」と言い張っていましたが。 https://t.co/vN1cSwcLO7
— 赤城毅/大木毅 (@akagitsuyoshi) 2017年8月13日
私が知っているのでいちばんひどい例は、すでに翻刻されて史料集に収められている文書を、文書館でナマで(というか、写しだった)みて、大発見だと騒ぎたてたというのがありますね。
— 赤城毅/大木毅 (@akagitsuyoshi) 2017年8月13日
たぶん、一種の「スクープ」意識だと思います。私などのところにも、新発見だと思うのですが、いかかでしょうと聞いてくるジャーナリストがいるのですが、いやあ、悪いけど、そうたいしたものではないねと応じると、なぜか不機嫌になって帰ってしまうのです(苦笑)。
— 赤城毅/大木毅 (@akagitsuyoshi) 2017年8月13日
たぶん、一種の「スクープ」意識だと思います。私などのところにも、新発見だと思うのですが、いかかでしょうと聞いてくるジャーナリストがいるのですが、いやあ、悪いけど、そうたいしたものではないねと応じると、なぜか不機嫌になって帰ってしまうのです(苦笑)。
— 赤城毅/大木毅 (@akagitsuyoshi) 2017年8月13日
マスコミのみなさんに、戦争の実態を後世に伝えたいという動機がないとは思いませんが、それ「だけ」、功名心なしでやっていると受け取るのは、あまりにもナイーヴじゃないでしょうか。
— 赤城毅/大木毅 (@akagitsuyoshi) 2017年8月13日
しかし、こうしてみると、昭和の末ぐらいまでは、つくる側、取材される側、視聴する側に戦争体験者がいたので、緊張感があったとは思う。もっとも、そのころでも旧軍将校に対するインタビューを、番組の主張に都合のいいところだけを抜き出して放送するということはあった。(続)
— 赤城毅/大木毅 (@akagitsuyoshi) 2017年8月13日
(承前)インタビューを受けた旧軍将校は、番組放映直後に亡くなられたが、あれは「憤死」だとささやかれたものである。
— 赤城毅/大木毅 (@akagitsuyoshi) 2017年8月13日
あれですよ、苦労して軍事雑誌に書いた記事を、「あ、そういうの、オタクしか読んでませんから。うちのスクープということでやらせてください」といわれるようなもんです。
— 赤城毅/大木毅 (@akagitsuyoshi) 2017年8月13日
ちょいと長くなるけどNHK周りの話も含め。ネタとして騒ぎやすいから「初発見」「新発見」を掲げたいのだろうし、それって江戸時代の「一番まとい」から何ら変わってないよね、的な。また「新発見」とやるとつっこまれるから「見つかった」という表現を使うようになったとの指摘には、ああなるほどと思うと共に「それをやると『容易に見つかる既存の話があるのに、見つかった云々っていうのは、ちょいと精査能力が足りなさすぎやしくせんか』と突っ込まれるよ」とテレビ局は突っ込まれるよね、という気もする。いや、もうすでにその段階なのかな。
指摘もされている通り、制作側に緊張感が無くなってきたってのも、堕落したような内容が目立つようになった一因なのだろうな。無論、元々ツッコミなど入るような余地が無いメディア構造の中で、手抜きがなされてきたり、目立つため、視聴率を稼ぐためだけの素材としてのみの認識となっていったというのもあるのだろうけど。
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