勉強をしない損失は選択肢の損失にある。しかもそれは後で分かってくる

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夏休みも終わりに近づいたからかもしれないけど、子供の頃の学習の意味合いに関わる話が色々と出ている。大人になった人たちが子供の時のあの学習部分は必要なかったなあと思い返したりする話もちらほら。トリガーとなった指摘(諸般事情で引用は無し)も、そのような話が合った上で、最大の不勉強の損失は「勉強してたら避けられるダメージを受けてしまったり、人生の選択肢が減ってしまっていた」ということにあるとしている。

他方、この類の話には良く「選択肢なんて無駄なモノばかりだし、自分に合ったものを選べばそれ以外は選ばれないのだから、それを用意するのは無駄」との話もある。それも一理あるのだけど。

無駄というのはいつ判断できるのかな、と。人生の最後まで見極めたアカシックレコードを産まれた時にチェックできて、その上で最適格を選べるのなら話は別だけど。あるいは昔のように、農家に生まれたらその子供は絶対に農家を継がねばならない的な状態ならば理解はできるけど。

それに往々にして「無駄だった」という話には、無駄でなかった機会に気が付いていないだけだったりする。あるいは無駄と判断してしまうような選択をしたまでの話。バイキングでカレー用のスプーンを取ったけど、結局カレーは食べなかったよ、的な。


で、加えて言うのなら指摘されている部分もあるけど、「役に立った」と明確に認識できる知識や勉強の結果ってのは滅多になく、日々の生活の中でいつの間にか使われていたり、判断基準の材料として用いられていたりする。また、高度な選択、判断、経験をする際にも、基礎的な部分が無いと間違ったり余計なリソースを使わざるを得なくなったりするわけだ。「シヴィライゼーション」シリーズのゲームをしている人なら良く分かると思うけど。あるいはロールプレイングゲームで取り損ねたアイテムがあって、後々のマップで詰んだり、やたらと苦労する羽目になったり、といったたとえなら分かるかな?

まぁ結局のところ、何を選択するかしないかも当人の自由ではあるのだけど。伝えるべき情報は伝えておくべきではある。

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このページは、不破雷蔵が2017年8月24日 07:53に書いた記事です。

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