日野皓正の中学生バンドの件をみていて思ったのは、報道であれ、個人のネット発信であれ、「けしからん」という感情に訴えるものに接したときは、慎重に構えざるを得ないということ。ちょっと待て、この話後からひっくり返るかもしれないぞ、騒がないほうがいいぞ、と。
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2017年9月1日
築地移転、森友加計、等もっと大きな案件でも、いったん「けしからん!」でわっと騒いだあと、実は問題でもなんでもなかった、空騒ぎでしたということが、一体何回あったか。そりゃ身構えるように、まずスルーするようになりますよね。https://t.co/YL6ZDYRmo4
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2017年9月1日
「オオカミ少年」のお話は終わり方にいくつかのパターンがあるけれど、主旨は大体同じで、村の人達が大騒ぎをするのを見るのが楽しくて、自分の言動で多くの人が反応する様子を見て自己満足をするために、本当には来ていないのに「オオカミが来るぞ」と声を何度となく挙げるというもの。
昨今の報道も似たようなもので、見てもらうため、買ってもらうために事を大げさにしたり虚言を混ぜたり誤解釈を平気で、意図的に成したりする。オオカミ少年より悪質なのは、自らの目的に誘導する、賛同する人を増やすための虚偽情報を流す場合も多々あるってことなのだけど(オオカミ少年の話だったら、オオカミ少年が嫌っている近所の人のことを「あの人はオオカミにエサを与えて慣らし、村に仕向けるつもりだ」と噂を立てる感じかな)。
今回のバンド事案の話も、大騒ぎされた当初の報の後で当時現場に居た人の話とか、映像とか、詳しい周辺状況の情報が出て来るにつれて、なんか随分と様子が違うってのが実情として分かるように。
読んでもらう、見てもらうためにはインパクトがある方がよいし、その実績を上げれば褒められるし自分の益にもなるという具体的な成果をゲットできるので、やってしまいがちになる。ただそこで、物事の本質をひん曲げたり、事実でないことを書き立てたり、良識の範囲を超えた過剰表現を成しては、元も子もなくなる。
現代においては報道自体が「けしからん」という感情を煽る方向にありますからね。
— 大江晋輔@エグゼクティブスーパーDT (@gosuke75) 2017年9月1日
可能な限り事情を把握した上で発言しないと、とんちんかんな事になりかねません。
これも年4回くらい言ってる気がしますが、人間はいくら理知的でいようと心掛けていてもどうしても情動や感情ってモノに引っ張られるので、とりわけ剥き出しの感情をぶつけてくるようなニュースや言説に触れる時は要注意というか、むしろそんなものには触れない方がいいのかもしれないと思っています。 https://t.co/ye4KemsqXI
— 荻野浩次郎 (@orijox) 2017年9月2日
相撲の技でねこだましというのがある。それと似たようなもので、感情をくすぐられると、特にネガティブな方向のを触れると、人はついそれに注目し、誘導されてしまう。どこかの国の小さな出来事とか、架空のやりとりならばネタ的な、読み物的なものとして、そういうのもありかもしれないけど。でもそういう条件付けをしたとしても、それは読み物だったり論評だったりで、報道では無い。
分かりやすいけど、ひきつけられやすいけど、正しくないものを報道として用いてはいけないのだな。......いや、報道でなくても正しくないものを正しいとして伝えるのは言語道断なのだけど。となると、報道内容は第一報ではスルーして、詳細な複数方向からの情報を待ち、その上で色々と考えた方が、間違いが無く好ましいことになる。
でも。ならば。報道の存在意義ってどこら辺にあるのだろう。
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